3/9

仕事は少し落ち着いたはずが,相変わらず慌ただしい。

採用品の搬入から発送までが何件かあったことと,セコハンのパソコンのセッティングを調整していたからだろう。他にも要因があった気がするがすっかり忘れてしまった。

金曜日は昌己,伸浩と高田馬場で飲む。先月,那智君とDTPをお願いしている方との3人で飲んだのと同じ店の同じ席だった。飲みながらかんばんまであれこれ話す。よい店だと思う。

土曜日は事務所で仕事。と書きながら思い出した。連れ合いの友だちからの相談で弁護士を紹介する段取りをとっていたのだ。併せて仕事先の代表から賃貸事務所の相談を受けていたので,その件でも確認などしていた。請求書もそこそこ作って発送したし。

日曜日も事務所で仕事。請求書を発送したり,手紙を書いたり,入出金の予定を立てたり,そんなことで一日は終わる。

請負仕事の件数を増やすための連絡をとりながら,仕掛の本をすすめていくとなると,今週も落ち着かなさそうだ。

3/2

2月の慌ただしさを引き摺ってしまう。昨日,今日と定期刊行物の発行作業の残りを済ませる。設定の変更を反映しなかったので28日に戻ってきたものに,履歴から一括置換して発送シールをつくりなおして貼る。

昼過ぎにはおおむね終わり,午後からサイトの調整をしようと考えていたところに,請負仕事の電話に1時間ほど費やす。それからサイトの調整に入る。

4月からクレジット決済のセキュリティ対策の条件がかなり強固になると連絡があったのは昨年末のこと。これまでどおりに自前で対策をする方向で考えていたものの,専門家の話を聞いたところ,有料で定期的にアップデートする必要がある(という私の理解)で,自前の運営はやめることにした。

新型コロナの影響でもろもろがストップした際に始めたネット古本販売と同じ環境に切り替えることにした。ダッシュボードに4,5年ふれているので,あらたな販売サイトをつくるのに半日もかからなかった。クレジット決済の審査結果が届いたので,3月のどこかから切り替えることにした。

元のサイトにリンクに使うアイコンを保存して,購入ボタンから新サイトに飛ぶようにして完了。当面はこれまでのサイト,新サイトのいずれでも購入できるものの,今週中には旧サイトはカタログとしてのみ表示させるようにする。

カタログ表示も新しいプラグインで作り直したいのだけれど,当面は今のままでカートを表示しない仕様に変更してやり過ごすことにした。

この間,サイトを通して購入いただいた方に連絡メールを送るのに,サーバーのメーリングリストの説明を読み直す。以前,このサービスを使った際に,ユーザーの返信機能を活かしてしまったために,やっかいなことになったのを思い出した。どうしてメーリングリストをその後,使わなかったのだっただろうか忘れてしまったのだ。

18時くらいに家内が事務所にやってきた。沼袋まで行って,レストランで娘夫婦と落ち合う。61回目の誕生日なので,一緒に食事をとることになったのだ。20時過ぎまでいてから帰宅。

2/18

午後から出張校正のため,午前中に作業を済ませておく。1日経つと何をしたのかすっかり忘れてしまうくらい雑多なことを片づけた。

13時過ぎに事務所を出て末広町まで。ここ半年くらい世話になっている床屋は平日の午後過ぎというのに待っている客が2名。15時過ぎには印刷所に着きたいのだけれど,順番が回ってきたのは15時前くらいだった。それでも30分ほどで終わる。あわてて印刷所に向かう。

校正の確認は30分ほどで終わる。歩いて秋葉原の方向に向かう。週末,事務所でイベントがあり,そのとき用にマレットを探しているのだ。ドラム・パーカッションを置いてあるような店には立派なマレットしかなくて,お茶の水まで行ったけれども,ここにも安手のものはない。しかたないのでネットで購入することして帰社。仕事を少し済ませる。

学生時代,義之がアパートに来たときだっただろうか。当時,矢作俊彦が「NAVI」に連載していた「ドライヴ・イン・シアター」の話になったことがある。連載第一回目はこんなふうに締められている。

だから私が,自分でつけ加えなければならない。「にもかかわらず,今,我々はアメリカの昭和六十年代にいるのではなく,幸か不幸か,日本の一九八〇年代にいるのだ」と。

義之には,この箇所の意味がよくわからないのだというのだった。わたしは,「意味」を問われるのは苦手だったし,いつものように格好のよい締め方だなあとくらいにしか思っていなかった。

昭和元年から100年が経ったと,あちこちで喧伝されている。仕事でデケイドと昭和の5年の差について少しだけ書く必要があったので,上の文章を思い出した。締めの前はこのような按配だ。

無作法にひっつけられた映画と自動車(中略)それが我が世の春を誇った時代,アメリカもまた春の盛りだった。(中略)我々はそれを一九六〇年代と呼び,アメリカ人は一九五〇年代と呼ぶ。

(中略)

そのことをポンセ君に話すと(中略)「そんなのはズレでいも何でもないさ。デケイドなんてスケールを,無理に使うからいけないんだ。ショーワで言やぁ簡単さ。君が書きたいのは。アメリカの昭和三十年代についてだ。昭和二十年代には朝鮮戦争があり,四十年代にはヴェトナム戦争があった。だからさ,——ぼくらは人の食い残しにやっとかぶりついた世代なんだ」

5年ズレた昭和でひっくくると,アメリカの食い残しに日本やフランスがかぶりついたところまでを含むことができる。初手から10年で区切って何かを語ることに意味づけなどないものの,意味がないから10年で機械的に区切ってしまうというのは悪くないと思う。

2/11

午前中から事務所で仕事。途中まで,といってもさわりだけまとめたインタビュー原稿データが見当たらない。保存していなかったらしいので,初手から原稿を作り始める。その前に,新刊のデータを登録したり,メールの返事などをしていたところ,あっという間に午後になってしまった。

3時間くらいで仕上がり4ページ分くらいのインタビュー原稿をまとめる。以前ならば録音テープを聞き返しながらテキストデータをつくり,それをもとに原稿にまとめていったので,1週間くらいかけて原稿にしたものだ。それが,録音データをフリーサイトでテキスト化し,そこから原稿をつくることができるようになったので,数分の1の時間でまとめあげられる。こればかりはネット技術の進歩に感謝する。

おまけに,以前ならば自分で聞きながら原稿化する時間がとれないときは,テープ起こしを専門に行う業者に頼んだものだった。もともとは速記屋さんというものがいて,インタビューや対談,座談会などに一緒に入ってもらう。速記録をもとに原稿化してもらったものに赤字を入れて,入稿原稿をつくった。たかだか30年前,Windows95がリリースされた頃までは,そのようにして誌面をつくったのだ。そこにはカメラマンも入るから,取材の場は仰々しくなる。1つの企画で,謝礼を含めると2時間で10数万円の費用がかかったものだから,容易に対談,インタビュー,座談会の企画はすすめられない。

カメラマンには入ってもらうものの,謝礼は実のところ30年前と同じ水準だ。速記屋さん・テープ起こし費用がばっさりと必要なくなり,謝礼も当時と同じくらいの水準なので,時間がとれるならば1つの雑誌にインタビュー,対談などの企画を複数掲載できる。

以前と同じようにして原稿をつくっている会社があるかもしれないが,こればかりは現在の環境ですすめたほうがよいと思う。

18時くらいまで作業をしてから池袋で家内と待ち合わせ。買い物をして帰宅した。

アフター・クラッシュ

出張の翌日,ネットワークを設定するものの,なかなかうまくいかない。ファクシミリ・プリンタ・スキャナー複合機とつながりづらいので,ドライバーを一式,再インストールしたもののスキャナーの保存先が設定できない。

理由はシンプルなもので,ノートパソコンを代替にしているため,ネットワークはWiFiでつないでいたのだ。もともとLANを張っていたため,LANコードをつなぎなおしたら認識した。

そろそろパソコンのデータは本体に保存せずにNASに一本化し,NASのバックアップを定期的に外付けHDDにすることに。メールのデータはサーバーに残っているし,それで不便ないような気がする。

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