品川

夕方から大船で打ち合わせ。夜には雨が降るというので傘をもって横須賀線に乗る。18時すぎまでかかった。ブックオフを覗こうかと思ったものの,面倒になりホームに降りる。品川で山手線に乗り換えて家に帰った。

品川駅構内の「タミルズ」がクラフトビールを売りにしたアメリカンダイナーに変わっていたので入る。メニューにはAveryIPAはじめ数種類のクラフトビールがあったけれど,結局サッポロの黒生をピクルスと一緒に頼んだ。

ピクルスが無茶苦茶すっぱくて,一口含むたびに瞬きしてしまう。読みかけていた大塚英志の文庫を片づけた。

ここ10数年,品川駅を利用する機会は恐ろしく増えた。昔は横浜方面から新宿・池袋方面に行く際,東京駅で中央線に乗り換えたものだけれど,品川経由で山手線を使ったほうが便利なことにようやく気づいたのがその頃だ。東海道新幹線に乗るときも,ほとんど品川を使っている。

昭和の終わり,ソニーがカード式ラジオシリーズを売り出したことがある。1枚のカードで1放送局しか聞けないという妙なコンセプトの商品だ。カードの売り上げが聴取率に直結してしまうじゃないかと,一瞬,斯界を賑わせたものの,結局,それほど売れたわけでなかった。加えて,たぶんラジオ短波のカードが一番売れたような記憶がある。つまり株式市場情報を聴くために買う人がもっとも多かったのだ。広告の効果も何もあったものではない。

その商品の取材に品川のソニーを訪ねたことがある。それまで田町には行っても,品川なんて行く理由がまったくない町だった。取材で訪れた品川は,なんだかさびれた町だというのが第一印象で,数年後,子どもを対象にしたイベントを見に,品川プリンスホテルへやってきたときもあまり印象は変わらなかった。新橋の第一ホテル東京が何とか破綻せずに続いていた頃だったので,2つのホテルを比べては,新橋と品川は遠いのだと感じたことを思い出す。

それが21世紀に入ってからこっち,駅に関して言えば,品川駅の利便性は恐ろしく高まった。そういえば,SUICAが幅を利かすまで,品川駅のJRと京急の乗り換えがキセルに便利だと聞いたことを思い出した(多くは語らないが)。

当時,月1回,二俣川で開かれていた集まりに顔を出していた。同僚に「横浜に行くならば京急が便利だ」とすすめられたのをきっかけに,行き帰りに京急を使うようになったのだった。すっかり忘れていた。

週末

金曜日に酒を飲み過ぎてしまい,土曜日の午前中は朝食をとってから横になり,本を捲る。午後に部屋を片づけはじめ,16時くらいに外に出た。遅めの昼食をとり,歩いて東中野のブックオフまで。何も買わずに戻る。喫茶店で休憩しようかと思うものの,気が乗らずにコンビニでコーヒーを買い,家に戻った。

日曜日は雑司ヶ谷で「はるのパンまつり」があるというので,少し早めに起きた。家内がなかなか起きてこないため,出かけたのは12時を過ぎになった。タクシーを拾い明治通りまであっという間に着いた。めぼしいパン屋は売り切れで,家内は焼き菓子をいくつか買った。

事務所に行くため別れ,明治通りを池袋に向かう。途中,古書往来座に入る。「タイフーン」の6号(終刊号)が並んでいたため購入。昼をとり,三省堂で仕事用の本を買って事務所まで。依頼状をつくり,メールを何通か売って帰る。

池袋西口のヱビスバーで休憩。高田馬場のブックオフを覗き,神吉拓郎のエッセイ集とあれ,なんだったろう。もう一冊文庫を買って,家まで歩く。

矢作俊彦の文章を集めていた1980年代前半,「タイフーン」を探していた。何だか矢作俊彦の文章が掲載されていそうな雰囲気を感じたのだ。しかしすでに休刊していて,古本屋で探してもほとんど目にすることはなかった。

その後,角川書店から刊行された別冊野性時代の特集に,「タイフーン」に書いた文章が再掲されていた。10数年後にようやく,あたりのつけどころはまあまあだったのだとわかった。ただ,その後もほとんど「タイフーン」は見つけられなかった。

古書往来座で1,500円もしたけれど,「タイフーン」第6号を買って,理由がわかった。1978年に6号だけしか出なかったのだ。もっと続いていたかと思っていた。版元のペップ出版も今は存在しないし,ドメスティックな「月刊プレイボーイ」を狙ったのだろうけれど,あれと同じクオリティを狙うにはかなりのバジェットが必要になる。もう少し刊行が遅ければ,広告でまかなうことができたのかもしれないが。

第6号に矢作俊彦の文章は掲載されていなかった。休刊にあたって,関係各位への謝辞には名前が出ているものの。

茶屋

18時に西日暮里でゲラを渡すことになり,16時過ぎに会社を出る。途中,今週分のヒスタグロビンを打ち,大塚経由で西日暮里まで向かう。19時過ぎに終わり,直行で中井まで。

昌己から連絡があり,スズキさんを誘って3人で飲むことになった。3月末に知り合いの編集者の定年を理由に飲み会があった。同じ日,私は筋金入りのアマチュアフォークシンガーと飲む予定が入っていたので,そちらに参加できなかったのだけれど。

店は,この前入った茶屋にすることにした。予定に少し遅れたので,直接店に行く。と,前回がうそのように客が入っている。焼酎のボトルを頼み,餃子を注文しようとすると,生地をつくっているので1時間くらいしてから頼んでほしいとのこと。

締めの麺線まで,気づいたら23時を回っていた。頼んでいないあれこれをサービスで出してくださったりで,居心地のよさでは,このところでピカイチだ。3人で飲んで食べて一人2,500円。楽しい飲み会だった。

選民

花粉の飛散が激しくなったためか,朝から調子が悪い。少し遅れて会社に行く。午後から永福町で打ち合わせ。2時間ほどで終え,会社に戻り,仕事の続き。19時半くらいに出て,茗荷谷でハイボールと枝豆,餃子で少し休憩。家に帰り,早めに寝た。

八〇年代のおたく文化に見え隠れしていた選民意識は……自分たちが選民である、という自負などではなく、選ばれることへの渇望ではなかったか(大塚英志、1995年)

このところ『戦後民主主義のリハビリテーション』(角川文庫)を鞄に入れて,ペラペラと読み続けている。1995年からの10年くらいに起きたことを思い出す。何度か読んだはずだけれど,内容はほとんど覚えていない。覚えているのは,阪神大震災のときの筑紫哲也の中継のエピソードくらいだ。ただ,どこかのPR誌で連載されていた筑紫哲也伝では,たぶんこの本から間違った引用のしかたをされていたような気がする。

覚えていなかったどころか,上に引用した文章なんて,覚えていないことが悔しいくらいインパクトがあった。

選民思想は,「選ばれた」ものと「選ばれたい」ものが隊列を組む,という図式でとらえることができる。確かにいくつもの出来事のなかに,この2種類の選民が湧いてきた様子がみてとれる。もちろん,それは悪夢以外,なにものでもない。選民意識のたちの悪さの要因はそこにあるのだろう。

ただ,ものごとを気に入ったり,面白がったりする心性の奥に,選民思想がないとはどうしても言い切れない。なおさら,選民思想の扱いかたは,とてもやっかいだ。

歴史

日帰り出張の疲れが抜けないまま,新しい週が始まった。慌ただしく進み,20時くらいに事務所を出た。寒い。

MADNESSを通して,80年代初め頃のことを思い出したら,面白くなってきたので続き。

P-MODELを初めてきちんと意識して聴いたのは「カルカドル」がリリースされたときのことだった。音楽雑誌で平沢進のインタビューを面白く読んでいたものの,1980年代前半聴いていたのはほぼ洋楽で,邦楽は加藤和彦周辺を聴くくらいだった。「カルカドル」で驚き,「Another Game」を御茶ノ水で探し出した。当時,ワーナー時代のアルバムをレコード店で購入することはできなかった。ジャパンレコード時代のアルバムも「Perspective」はほとんど手に入らない。ほんの3,4年前にリリースされたアルバムがそんな調子だった。

Webに日記のようなものを書き始めた最初のあたりに,「Perspective」を患者さんから借りた話を書いた。その頃,16,17歳の背の高い女の子が入院していて,カウンターで世間話をしていたとき,弟さんが「Perspective」を持っているという話になった。代わりに何かのアルバムを貸した記憶があるのだけれど,「Another Game」だったのかな(確認したら「SCUBA」だった)。

カセットブック「SCUBA」は手に入り,1986年になって「ワン・パターン」がリリースされた。翌年,新宿エジソンあたりと関係あるインディーズレーベルから1st~3rdが再発された(あれ? 「Perspective」が再発されたのであって,1st~3rdはCDになるまで再発されなかったかもしれない。でも,大枚はたいて買ったアルバムが再発されてしまい,ちょっとした衝撃を受けた記憶がある)。

再発される前に,P-MODELの1st~3rdは中古レコード店で手に入れていた。御茶ノ水のディスク・ユニオンの一店が丸善の向かいのビルの2,3階にあって,そこが一時,日本のロック専門店だった。「ポプリ」を5,800円くらいで見つけて,大枚はたいて購入したのだ。西新宿で見つけた1stも,もしかしたらそれくらいしたかもしれない。2ndは蒲生の中古雑貨店の軒先に,チャクラや坂本龍一のアルバムと一緒に並んでいたのを買った。300円くらいだったと思う。

しかし,これは特殊なことで,ふつう「カルカドル」に衝撃を受けて,「パースペクティブ」までは遡っても,当時,1st~3rdはよほどのことがないかぎり,買おうとは思わない。その頃,多くのバンドがあっという間に変化して,繰り返しになるけれど,現在を全面的に肯定することこそ,ミュージシャンの活動だった。ほとんどのバンドに「黒歴史」があり,「あれはなかったことにする」位置づけのアルバムが蔓延した。P-MODELの1st,2ndは,そんな感じだった(3rdは違うのだけれど)。

デヴィッド・ボウイを例にあげるとわかりやすい。

King Crimson中耳炎患者だった私が最初に買ったデヴィッド・ボウイのアルバムは“Heroes”だ。“Low”も聴いた。“Scary Monsters”はもちろん買った。でも1970年代半ば以前のアルバムを積極的に聴くようになったのは,平成に入って,RHINOでCD化されてからのことだ。

84年くらいに突如,ジギースターダスト期の映画とライブアルバムがリリースされた。ボウイが亡くなった頃に,そのことを書いたような気がするけれど,その音の悪さの音圧とミック・ロンソンのギターの恰好よさに,ようやく気づいた。にもかかわらず当時は,そのライブ盤とベスト盤を聴いておけばいいかな,という具合だった。今となっては“Station to Station”が評価される理由はわかるけれど,当時は私のなかでは「そんなもの」という位置づけだった。

レコードの時代,あるミュージシャンの作品をすべて追って聴くというのは,どちらかというと特殊な行ないだった。

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