認知行動療法

娘が昼からアルバイトだというので,8時過ぎに起きた。食事をとり,10時過ぎに家を出る。会社で仕事,というか昨日そのままにしてきた事務仕事の片づけ。

その前に床屋に入る。父親が亡くなった後の慌ただしい時期,東中野の床屋に行く時間がとれなくなり,会社近くなので以来,ここ3年くらい通っている。床屋のBGMはそれぞれに特徴がある。この店は変わっていて,この日はニルヴァーナだった。暇だったのでどんなコード進行なのか聴いたけれど,結局,よくわからなかった。どこか中途半端な感じがした。

会社で仕事を片づけ,14時半くらいに家内がくるというので,totoruで昼食。二日続けて入る。雨だというのに混雑していた。

その後,18時くらいまであれこれ手をつけて,帰る。池袋でグラスワインとミニサイズの胡椒グラタンで休憩。井上ひさしの『組曲虐殺』を読み返す。

20時くらいに家に着き,夕飯。テレビで「そして誰もいなくなった」の後編が放送されていたので,一家して観た。最後の15分の渡瀬恒彦を見て,驚いた。

先日,茶屋で昌己と飲みながら,とっ散らかった話のなかに認知行動療法が出てきた。まあ,二人して認知行動療法批判をするのはめずらしくないのだけれど,どんな流れでそうなったのかすっかり覚えていない。

少し前にも記した覚えがあるものの,私も昌己も1980年代のはじめにスキナーボックスではじまりミルグラムの服従実験へとつなげた行動心理学の講義を受けた。基礎科目だから,概論をさらりと講義されただけにもかかわらず,そのインパクトは大きかった。その頃,徹から借りた『洗脳の時代』を読んだので,結局,問題は「他人を操作しようとする意志」なのだと感じ,とにかく相容れなかった。以来,今日まで他人を操作するかのようなモノ・コトに対する拒否感は変わらない。

心理学には,どこか他人を操作しうるかのような空気がいつも流れていて,本来,この学問領域に入るとき,倫理的にその空気を排除するよう教育を受ける必要がある。河合隼雄が新書のなかに「メサイヤ・コンプレックス」と称し一項目加えたのは,もしかすると,倫理を前提にできない状況が感じられたためかもしれない。

自己啓発セミナーやある種の新興宗教,企業のなかにさえも,他人を操作しようとするしくみが利用されていることをいまさら声高に指摘する必要はあるまい。いや,政治からなにから,とにかく何かにつけ人を絡め取ろうとする意志が年々強くなっているように感じる。他人のことは放っておいて,自分だけで勝手にすりゃいいのに,自分は何もせずに,他人にばかり干渉してくる輩が増えた。いや,増えたというよりも,武谷三男がいうところの「特権」的立場にいるものが,他人を操作するための環境変化にばかり熱心だから頭にくるのだ。

認知行動療法で救われた人がいることをまったく否定しないけれど,たぶん,あの手法は容易く使ってはならないものだと思う。ということを,ときどき言い合わないと,ストレスが溜まってしかたない。

iMac G4

警告
警告
警告
警告

警告。

午前中ゆっくりしていて,昼前に会社に行く。昨日できなかった仕事を片づけて,15時には帰る。totoruで遅い昼食をとり,目白で降りる。金井書店が開いていた。一通り店を眺め,2冊購入。エーグルドゥースまで歩き,ケーキを買ってそのまま家まで歩く。

駅前の中二階にあるカフェが閉店していたのをはじめ,目白通りがまた,閑散期に入ったようで寂しい。20年近く前,すでにバブルは弾けていたものの,それでも目白駅から聖母坂までの通りに,金井書店以外に少なくとも3軒の古本屋さんが店を構えていた。画材屋の二階のレストランをはじめ,シャーク,カルミネ,駅の反対側だけれど,川村学園の裏手にはミストラルがあった。すでにない店の記憶ばかり蘇る。桔梗屋書店が仮店舗のまま本当に小さな店を続けているは知っていたけれど,初めて店内に入ってみた。本店を続けていた頃は,岩波はもとより未来社フェアとか,棚に動きをもたせよると工夫を凝らしていた。仮店舗は,池袋の東武ブックスが果たす機能程度の品揃えだった。何か買おうと思い,しばらく棚を眺めた。結局,何も買わずに出ざるを得なかった。

目白通り沿いの店は,数年前に少し持ち直したような雰囲気だったのだけれど,結局,長くは続かなかった。中井の商店街は,それに比べると,盛衰はあるけれど,何とか続けている店が多いなあと感じた。

夜,テレビからDVDレコーダーを外してブルーレイレコーダーに付け替えた。ケーブルの接続は見よう見まねのため,レコーダーを経由せずに直接,テレビを見るようにはできなかった。くるりの「NOW AND 弦」を見た。画面と音の感じがDVDと違うのは明らかだ。ふと,iMac G4を繋げたときのことを思い出した。

iMac G4は2002年の11月に手に入れた。有楽町のよみうりホールの下はすでにビックカメラになっていて,そこで買ったのだ。12月早々に届いたiMacを繋げて,驚いたのはiTunesを立ち上げて,インターネットラジオを聴いたときのことだった。何せクラシックから民族音楽,朗読まで24時間流し続けているのだ。クリスマスが近かったので,クリスマスソング専用のチャンネルがあった。部屋を掃除しながら,よく聴いていた。

メールはすでに仕事であたりまえのように使っていたし,インターネットも似たようなものだった。Youtubeはまだできていなかった。iTunesのインターネットラジオの新鮮さをいま,伝えるのは難しいかもしれない。

花粉症

朝起きたものの頭痛が非道く,いかんともしがたい。会社に遅刻する旨連絡し,鎮痛薬を飲んで横になる。昼前にどうにか家を出て,とりあえずここ10年近くヒスタグロビン注射でかかっているクリニックに向かう。例年は早めに第1回目の注射を打つのだけれど,今年は遅れてしまったためか,注射を打ってもなかなか体調が回復しない。

バスで会社に行き,メールと打ち合わせを終え,2時間ほどであがる。

昼食をとっていなかったので池袋のホープセンターにできた星野珈琲に入り,サンドイッチとコーヒーで軽くとる。しばらく休むとどうにか調子が戻ってきた。からだの様子をみながら八勝堂書店まで行く。風が強い。ヴォネガットの『屠殺場5号』と『猫のゆりかご』それぞれ初刷を見つけ購入。安価だったからだ。『猫のゆりかご』は1968年刊で,この版が『ららら科學の子』に登場したものだと思う。

家に戻り,少し眠った。

夕方になるとようやく注射が効いてきたらしい。起き出してメールをチェックすると昌己から夕飯でもどうか,と。19時にサワディーで待ち合わせることにした。

サワディーはフロアの人がいないらしく,厨房と兼ねてかなり忙しそう。小一時間ほどいて,先日,見つけた川沿いの居酒屋に行ってみることにした。「居酒屋茶屋」という台湾居酒屋で,少し前,踏切の向こう側にあった「お茶ん」と関係がありそうな雰囲気。「お茶ん」はほとんど開いていなかった。一度も入ることがなく,いつの間にか店をたたんだ。

カウンターに常連が鎮座し,左手の上がり座敷にテーブルが3つ。一番奥に座った。餃子は皮まで手作りのようでとても美味い。台湾卵焼きはお好み焼きのように平らに焼いた卵焼きにさりげなく具材が混ぜられていて,青菜炒めには山椒のような香辛料が入った独特の味。麺線があるというので頼んだところ,これもとても美味い。かつおだしのあんかけ風スープに細麺とモツ,パクチーが入ったもの。

店主は台湾の方のようで,ときどき買い出しに行ってはレパートリーを増やしているようだ。気がつくと23時を回っていた。昌己とは,仕事の話や籠池の話,チャールズ・ヘイワードの話など,とりとめなく,いつものようにあちこちに話を飛び散らかせる。まったく30年以上,変わらないな。

中井に越してきてから20年くらいになるけれど,当初のミャンマー料理店をはじめ,今も続くサワディー,数多の個性的な居酒屋に入るにつけ,このあたりは妙な磁場があって,そういう店を引き付けるような気がしてならない。

お別れ会

みちくさ市の様子については別のブログに記したので,日中の用事について留めておくことにする。

井上さんと初めて会ったのは,浜松の研究集会でだったと思う。20年前のことだ。当時,自社で通らなかった企画を知人から預かった当時の社長が単行本化を決め,私が担当することになった。出来上がった本を並べられる直近の集まりが浜松の集会だった。

子どもを授かったことがわかり,仕事では竹内先生の企画は真っ只中。業界はまだ右肩上がりの成長を続けていた。風向きはよかったけれど,それでも仕事上ではいくつもの軋轢があった。なおさら,この仕事を続けて,何とかなりそうだという気分を初めて感じたのがこの頃だったように思う。それは決して覚悟ではない。

甲高い声で,顔は笑ってもメガネの奥の目が暗い。矢作俊彦が高橋源一郎を称するような感じの人だった。その後,いくつかの仕事で原稿をお願いした。データに基づき,テーマを運動に繋げて展開するのが巧い。もちろん,それが井上さんの役割なのだから,巧くなければ勤まらない。ただ,ときどき,繋げて展開することより,心情に訴えかけてしまいがちなのが,この世界の常にもかかわらず,井上さんは心情で人は動かないと割り切るところから始まっているようだった。まだ30代だった私に,それはなかなか難しい判断のように思えた。

一度,体調を崩し手術をされたと伺ったことがある。順調に回復され,仕事に復帰した。10年前に連載を頼みに入谷の事務所に伺った。当時は打ち合わせのために,1,2か月に一度は事務所に通った。あるとき,メールが入った。上部団体に移ることになったので,連載の続きをお願いした人を紹介したい。井上さんらしいなと思った。

それから3,4年後。連載の後任の方からの情報をもとに本を一冊刊行した。本の活用をお願いしに,湯島まで出かけた。すでにトレードマークになっていたイヤフォンをぶら下げて井上さんが出てきた。本の活用をお願いしながら,斯界の話を少しだけしたけれど,やっぱり心情で人は動かないよ,というスタンスは変わっていなかった。

年越し派遣村のニュースで井上さんを見たときも,井上さんらしいなと思った。定期的にメールが届き,FBで活動の様子を知った。

昨年のクリスマス。井上さんが亡くなったという情報が飛び交った。数日後,新聞に訃報が掲載されたけれど,多くの人が信じられない様子だった。

青山葬儀場には,それはたくさんの人が集まった。新聞記者や国会議員にまざって,20年前,浜松で,入谷で,いくつもの運動にかかわった人が何人もいた。

井上さんが私と同い年だと知ったのは,亡くなってから後のことだ。

本を買う

娘と家内は夕飯を済ませて帰ると連絡があった。

20時くらいに事務所を出た。丸ノ内線を帰宅とは逆方向に乗る。後楽園でおりた。改札を出て左に向かう。春日通りを渡り,そのまま進む。あゆみBOOKS小石川店が見えてくる。

あゆみBOOKS小石川店の閉店を知ったのは,少し前のことだった。日販の傘下に入ったあたりから雲行きは怪しかった。当時の書店員さんのツイートで,厳しい労働環境に置かれた様子は私にでも理解できた。

店内に入ると閉店の挨拶文が張ってある。開店から12年だという。出版業界がてっぺんを打ったのは1997年のことだったはず。ということは,開店時点から後退戦のなかにあった。都営新宿線が開通した早々,瑞江駅前にできたあゆみBOOKSとは違うのだ。にもかかわらず,この場から生み出されたやりとりはいくつもある。

補充されなくなった棚の背があちらこちらに見える。そこをまた,新たな企画につなげる。しかし,昨年の芳林堂書店高田馬場店の消耗戦とは全く違う意味で、補充されることのない棚はなお,メッセージを発する。

あゆみBOOKS小石川店で本を買った。純文学というやつだ。

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