夜と霧の隅で

多くの人にとってそうであるように江戸川乱歩は別にして,北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』とヴェルヌの『八十日間世界一周』で文庫本を読む楽しさに目覚めた。夏目漱石はまた別として。私は中学生になったばかりだった。

北杜夫は新潮文庫がかなりカバーしていて,どくとるマンボウもので住み分けた中公文庫,角川文庫でも数冊刊行されていた。文春文庫は遠藤周作との対談くらいで『怪盗ジバコ』はまだ出ていなかったような気がする。集英社文庫には『船乗りクプクプの冒険』だけがあった。講談社文庫の記憶はまったくない。しばらくして潮文庫で『人工の星』が出たときは妙な感じがした。

『どくとるマンボウ航海記』は角川文庫で読んだ。だからその後,ざらついた紙の手触りと匂いが記憶に染み付いてしまっていて,いまだに角川文庫版を手放せずにいる。たぶん私の手元にある本のなかでもっとも読み返したものだと思う。

短編集『夜と霧の隅で』も,中学時代に読んだ。どんなふうに感じたのかはすっかり忘れてしまったけれど,エッセイはもちろん,初期の短編から『まっくらけのけ』あたりまでは,中高6年間でどれくらい読み返したか覚えていない。

昨日,「夜と霧の隅で」について書いた後,少し検索してみたところ,結局,T4作戦をテーマに小説を書くというアイディアが世界的にみて早すぎたのだという側面もあるのだと思った。記憶のせいだからなのだろうけれど,ネットにあがっている情報はこと,事実について不正確だなと改めて感じた。もちろん,人のことを言えない。

今年のはじめに読み返し,印象に残った箇所(の一部)。

一人の医師として,気の毒な患者さんたちの生命が不要な廃物のように篭に投げこまれてゆくことを傍観したくはなかった。しかしSSの命令を同時に彼は知っていた。一人二人の生命を僥倖によって救ったとしても,それはほんの正面の戦線をむなしく死守するようなものではないか。それならば方法はあるのか? あった。たった一つあった。一刻も早くこの誤った戦争を終わらせることである。誤った? 戦争に誤ったも正しいもないのではないか? いずれにせよ戦争は終結させねばならないものだ。

そうした絶望的な状態を反芻しながら、ケルセンブロックは建物の前だけきれいに雪のかきのけられた舗道を辿っていった。もう駅は遠くなかった。

夜と霧の隅で

本書が取り上げようとするナチ国家における精神障害者大量「安楽死」と,それをとりまくナチズム期の精神医学および精神分析学の動向,さらにはその戦後への見逃すことのできない深刻な影響なども,そのひとつである。これらの歴史は,ごく最近に至るまで――少なくともホロコーストの歴史ほどには――決して想起されることはなかった。それは歴史のなかで,深く隠蔽され抑圧され続けて今日に至ったものといえる。
小俣和一郎『精神医学とナチズム』(講談社現代新書)

内容はすっかり忘れ,書棚のどこかに埋もれたままの新書を会社帰りに寄った古本屋で見つけ購入した。途端,昌己からメールが入り,なじみのタイ料理屋で夕飯をとることになったのでそのまま持っていった。『精神医学とナチズム』を鞄から取り出すと,昌己も刊行当時読んだという。不思議なことではない。

翌日から通勤中に読み進めているのだけれど,引用した冒頭の一文にひっかかった。本当かよ?

北杜夫の芥川賞受賞作「夜と霧の隅で」を読んだのは中学生頃のことで,つらつら思い返すと,結局,その後,今日に至るまで精神科医療に関心をもつきっかけは北杜夫の作品だった。

「夜と霧の隅で」は,小俣が述べていることとはまったく異なり,第二次世界大戦真っ只中のドイツにおける精神障害者の安楽死と,そこにかかわる精神科医の苦悩をテーマに据えたものだ。戦後15年,すでに小説のテーマに取り上げられていたことを小俣が踏まえなかったのはどうしてなのだろう。

読み始めると面白くて,あれこれ情報を補ったり修正したりしながら,半分くらいまで進んだ。フロイトとユングのくだりになったあたりで,そうか,シュヴィングの『精神病者の魂への道』は,「夜と霧の隅で」につなげるという読み方ができることに気づいた。つまり,シュヴィングが潰えた理由の一つがナチズムの台頭であり,そこに「夜と霧の隅で」があるというようなイメージだ。

仮に,シュヴィングをモデルとする看護師を主人公に,なんらかの物語を構想するするとき,そこには「夜と霧の隅で」の登場人物やエピソード,斉藤茂吉やフロイト,ユングを交錯させることが可能なのだ。

おともだち

父親が亡くなる少し前,とてもいやな出来事があって,直接関係ないにもかかわらず,以来,那智くんと連絡をとらないまま数年が過ぎた。

その数年前,那智くんはT3でつくった音源にかぶせるため,私の家でギターを弾いてくれた。仕事の関係で20年くらい前にはじめて会い,10年くらい前のしばらくの間,同じ職場で仕事をした。当時のことは書いたように思うので繰り返し記すのはやめよう。

1か月くらい前,那智くんからメールが届き,そのうち飲もうということになった。理由は知らないが那智くんは数年間,アルコールを断っていた。同じ職場にいた頃は,その真っ只中だったので,酒を飲みに出かけた記憶はない。最近はビールだったら付き合い程度に飲むというので,先週末,池袋西口のアイリッシュパブで待ち合わせることにした。

もともと音楽の趣味に共通するところがあったし,仕事も近い領域だ。外注をお願いしている人も重なっている。話題には事欠かない。そんな話をしながら,那智くんも気になっていたのか,いやな出来事のことも出たけれど,いまさらどうでもいいなあという感じで話を聞いた。

付き合い程度というのがどれくらいなのかわからない。付き合い程度の那智くんは1パイントを5,6杯飲んで,ほとんど変わらないのだから,私が先に酔っ払ってしまった。

高田馬場で別れた後,北山修が友人について話したことを思い出した。

「ぼくがこんなにあいつのことを思っているのだから,あいつも同じくらいぼくのことを思ってくれているに違いない」と「ぼくはこれくらいしかあいつのことを思っていないのだから,あいつもこの程度しかぼくのことを思っていないだろう」の2つを例に出して,北山さんは後者よろしく,友人に過度の期待をもたないようにしてきたと,何の話だったかはすっかり忘れたものの,そこだけは印象に残っている。

「珍来」を書くために,記憶を整理していると,あの居心地のよい4年間は奇跡のようなものだったなあと,30年経てそう思うのだ。翻って,過度の期待をお互いにもたない友人との出会いは,大学時代以降,結局,なかったことを感じた。社会に出てからの人間関係は損得利害がどうしても絡んでしまい,そこから一歩飛び越えられない。たぶん,私もそうなのであって,だから出会った人一人ひとりは私がするように私に対応するのだ。

ただ,家族ができたことをのぞいて。

珍来

喬司はB級グルメやファストフードにうるさかった。吉野家の牛丼やモスバーガーの食べ方など,彼のスタンダードを嬉々として披露する。

彼は味噌ラーメン好きだ。だから,美味い店でしか味噌ラーメンを頼まないという。

「美味いかどうか,食べてみないとわからないじゃないか」昌己がそう問うのは当然だ。

「それが違うんだよお前らは,まったく」

一言一句意味がとれない言葉を返されて,喬司がどうやって美味い味噌ラーメンにたどりついているのかは結局,わからなかった。

その日の午後,われわれは喬司がはじめて味噌ラーメンを頼む姿を珍来で見たことになる。どうしてこの店の味噌ラーメンが美味いと判断したのかはわからないので,もう一度尋ねてみたものの,「花板が」とか何とか,適当なことばかり言ってくる。

「ラーメン屋に花板はいないだろう」

「兄弟でラーメン屋やってて,兄は麺づくりに長けていて,弟はスープが……」

「美味しんぼのネタじゃないか,それ」

「兄弟でやっているパスタ屋だってあるかもしれないぜ。麺づくりに長けている兄とソースづくりに……」

その土曜日,われわれはそれぞれラーメンをとり,ギョウザは分けて食べたような気がする。

「今日はラーギョウだな」

「何で省略してつなげるんだよ」

「チャーギョウも捨てがたいんだがな」

「うるせえな,まったく。チャーラーはどうよ」

「そりゃ,食いすぎだ」

いまさら思い出すのもばかばかしいやりとりを珍来で繰り返した。

喬司がどうやってたどりついたのかわからないものの,珍来のラーメンは美味かった。美味いものの,500円を超えていたから,それから後,懐具合がさびしいときは焼きそばを食べることが多かった。焼きそばは400円しなかったはずだ。いくら昭和といえ,60年代に入っているにもかかわらず400円は安い。独特のぶつ切り麺をオイスターソース で炒め,キャベツともやしが麺と同じくらい入っているもので,肉はほとんど見えなかったから,それは私にはまったく都合のよい食べ物だった。

われわれは裕福なときよりも,そうでないときのほうが圧倒的に長かったので,美味いラーメン屋で焼きそばばかり食べていたような気がする。どうすればそんなことができるのかわからないが喬司のように美味いから頼んだのではなく,頼んだら美味かったのだ。

喬司も徹もネコ舌だったので,珍来のギョウザでよく火傷をした。餡が熱くなっているとわかっているにもかかわらず,目の前に皿が並ぶと,すぐさま箸を伸ばしてしまう。毎回,「アチッ」と繰り返すものだから,昌己など「お前ら,本当に頭悪いんじゃないか」と面と向かって言ったりもした。

珍来とわれわれの愚行については,キリがないほどエピソードが記憶の地層に埋まっている。

珍来

珍来に通い始めたのは,アルバイトが決まる少し前のことだった。

その頃,喬司や徹とは酒を飲むより,喫茶店で時間を潰すことのほうが圧倒的に多かった。喬司は金の出入りの差が激しく,非道いときは“夕飯はタバコ3本”というような感じだったからかもしれない。われわれは酒を飲むよりも,コーヒー1杯でありったけの時間を潰してばかりだった。話すことはいくらでもあったのだ。

そこに昌己や伸浩,裕一たちが加わり,その後,卒業までの実にくだらないけれど居心地のよい日々が始まった。YMCAのピクニックじゃないので,揃って何かするわけではなく,そのときどき近くにいた面子であちこち動き回った。

しばしば腹を空かせていたわれわれは,安くて量の多い店の情報だけは常に共有することになる。喬司か,もしかすると徹だったかもしれないが,大学最寄の駅から一駅上ったところにある珍来は,美味くて安いという話が出た。「本当かよ」「おまえの美味いは,あてにならないからな」形だけ否定しているものの,そういう話を聞くとすぐに行きたくなる。

同じ頃,徹がアパートを引越した。そこから珍来へは歩いて行ける。講義に出たある土曜日の午後,われわれは珍来ののれんをくぐった。(つづきます)

Top