街の人生

岸政彦『街の人生』(勁草書房)を読み進めながら,30年前の雑誌「スタジオ・ボイス」に掲載された徳田正博さんによるインタヴューと写真を思い出す。

二月七日朝,ひとりの男が息をひきとった。犯行グループは横浜市内の中学二,三年生,高校生,有職,無職少年ら十人。無抵抗の六十歳の男は,踏みつけられたり蹴られたりしたうえ,公園のゴミカゴに入れられ引きずり回された。そして,約三十分後,植込みの中でうなり声をあげているところを観光客に助けられたが,頭や胸には致命傷を負っていた。 殺された男を『人生の裏表』というテーマで偶然撮っていたカメラマンがいた。本インタビューを収録した彼の六十分カセットテープには“1982・12・26・夜11:00 山下公園,ガード下での須藤さんとの会話”とだけ記されている。事件後,さまざまな人がさまざまなことを語ったり書いたりしたが,本誌編集部の見解は何ひとつない。青森市造道生まれの無職須藤泰造氏の生前の肉声を,ただ一度掲載するのみである。(編集部)

編集部からの依頼,つまり「生前の個人の目の位置で公園内を撮る」シューティングは,予想以上に難しかった。4月5日の昼下がり,殺害された彼が寝床にしていた地点にしゃがみながら,どう撮るべきかで僕は悩んでいた。故人の大好物だったカップ酒を3分の2程度飲み終えた時,突然,一羽の鳩が目の前に舞い降りてきた。餌を撒くと,今度はバタバタと幾羽も降りてくる。僕はさり気なくそっと,カメラを地面に置き,ちょうど瞬きをするように一度だけレリーズを切った。“同じ生き物”としての人間と鳩……という思いだけがあった。(徳田正博) スタジオ・ボイス,1983年6月号。

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『街の人生』の本文には以下のようなくだりがある。

(ニューハーフの「りかさん」へのインタビュー) ――(前略)僕も友だちに,いまこういう勉強してるんやって言うと,『あの人たち(ニューハーフ)って病気なんでしょ?』とか,そういうこと言う人がいるんですよ そうよ,性同一性障害っていう新しい分野が確立したときに,そこは精神の病のひとつに入れられてるのね。だから「仕方ないからこの人たちの戸籍を変えてあげましょ。でないとこの人たちはよう生きてかれえん」言うてんねんから,「病気やから仕方がない」っていう感覚で認められてることに,私は「病気じゃないのよ」って。 ――僕もそこにカチンときて,病気じゃないねん。なんで病気っていう風に捉えるもんかなっていうのが凄いカチンときて モノの考え方の柔らかさで捉え方違うし,病気としか思えない人は,そこまでしか考えられないって言ったら失礼かもしれんけど,哀しいかな,そこに関してはそこまでしか理解できひん。 同書,p.107-108

このやりとりが引っかかり,あれこれと考えた。 医療技術は診断と治療に基くと考えたうえで,20世紀末に,QOLの向上を目的とする緩和手術(末期患者への下肢の整形外科手術など)の是非が問われたことを思い出す。診断がつけば,少なくとも治療法が「ある」か「ない」かは明確になる。しかし,末期の人に対する手術というのはあり得るのだろうかの,それは問いだった。

反精神医学運動が興味深かった理由の1つは、除外診であるはずの「健康」に、医師自らコミットしたからだ。統合失調症が疾患でないとしたら,そこで医師として何をしようとしたのだろう。 性同一性障害と仮に診断された人が選ぶさまざまな手術を医療ではなく美容整形としてとらえ,それを技術論から考えることが必要なのかもしれない。しかし,美容整形にどんな技術論があるのだろう? 精神は正常で,身体が精神と整合性がとれていない疾患という見方もあり得るのでは,と思いもするが,ここで語られていることは,どうもそうではないようだ。 診断と治療については,次のような指摘がある。31歳,摂食障害の女性へのインタビューで,これはとても印象的な一節。

うんー。治るっていうのがわからない。回復論じゃないけど。回復に関する,症状が消える,イコール回復ではないと思いますね。治った,治らないっていう言い方はようしないんです。私一人,元気ですっていう言い方しかできないっていうか。じゃ何をもって治ったのって言われたら自分いまでも答えられないから。何を回復って言うの? じゃ,症状が無くなった人は回復してるんですかって言われたら,症状が無くてもしんどい人はいっぱい,見てきたから,症状じゃないなって思うし,うん……。 うーん……回復……じゃ逆に,回復っていうのはどう,どういうことなんですかね? あはは。 同書,p.138.

国会前

午後から数のことを考えた。数自体ではなく,数が与える不意のゆらぎのようなものについてだ。

職場の近く,東京ドームには5万人の収容量がある。5万人を喩えるとき,“東京ドーム1回分”というように使われやすい。日産スタジアム1回より少ないと突っ込まれもしようが,ただ“5万人”という数字にはどこか弱さのようなものを感じる。

しかし10万人となると,風向きが変わりそうな気がするのだ。根拠も何もない,それは単なる感覚だ。初手から正しいから道理が通るなどとは考えていない。

喬司と昌己にメールで連絡をとり,18時半に待ち合わせて,国会前に向かった。19時の国会前は,人いきれで,まるで西新宿にあった頃のロフトよろしく酸欠状態。そして,まだまだやってくる人の波。

1977年の夏,劇場版宇宙戦艦ヤマトが公開されたとき,中学生だった私は,友人とともに始発電車に乗って池袋の映画館に向かった。国会前に行った気持ちは,実のところ,あの夏の朝にとても似ていた。

ふと,水俣病事件を闘った川本輝夫さんの言葉「熱意とは事ある毎に意志を表明すること」を思い浮かべた。

エクソダツ症候群

あとあと何かと助かるので留めておきたいのだけれど,7月に入っても,なかなか記録は続かない。以下,FBへの投稿に手を入れたもの。反精神医学や比較文化精神医学に関する文献が少しは手元に残っているので,ついページを捲ってしまった。

渋谷に出たついでに,山下書店で宮内悠介の『エクソダス症候群』を購入。舞台は火星の精神病院で,この時代,DSMは47まで改訂されている設定。各章のトビラ裏には,フーコー,中井久夫,安藤治,ルーゼンス(ギールの街の人々!)などなど。反精神医学に関連する懐かしい固有名詞が次々に登場してきて眩暈を起こしそうだった。25年前に精神科医である父が起こしたある事件(実験?),『ドグラ・マグラ』?? 後半を読み進めているあたりでは,この界隈では極北の山野浩一の『花と機械とゲシタルト』を越えるかどうか,楽しみだった。

週末をかけて読み終えたところでは,たぶんこれまで描かれたなかでもっとも読後感のよい反精神医学本という印象。なにせ,レインの最期を例にあげるまでもなく,この領域をとりあげた本は読後感が非道いものばかりなので,これは貴重だと思う。ただ,『花と機械とゲシタルト』と比べるものではなかった。まずは再読中。「情報操作社会のモデルとしての精神病院」で秩序の維持が成立し得るなどという小説のネタを考えていたことを思い出した。

FBでは,1980年代の後半,後に卒論に使った文献の抜書きをしたので,転載しておく。最初のものは比較文化精神医学関連について述べられた箇所。

民族精神科医ジョルジュ・ドゥヴルーは文化的相対主義理論の背景にかくされた公準,すなわち個人が病気になりうるならば,社会は必然的に常に正常である,という公準を明らかにした。ドゥヴルーが考えているように,『病的な』社会が存在するかぎり,集団の範囲を取り入れる者は,自分の中に病的な規範をも取り入れているのである。したがってここでは,健康の真のしるしは反逆であって,適応ではないことになる。

自ら病気にならなければ,その社会に適応できないほど病的な社会が,あるいは社会の一部が,存在することを認めなかったために,文化主義理論は自らの欠陥を証明してしまった。

ロラン・ジャッカール,内藤陽哉訳:狂気,p.43-44,文庫クセジュ,1985.

野田正彰の『狂気の起源を求めて』(中公新書)などで魅力的なディスクールが展開されたとはいえ,1980年代に比較文化精神医学は,こと臨床的にはあまり役割を果たすことがなかった。ただ,1990年代からこちら,あり得るのかもしれないと思いもした。

学問の進歩は人間を解放していくとはかぎらない,このことは精神科医療史においてもわたしたちは認識しなくてはならない。というのは,一九世紀においては自由で開放的で人間的であった精神病院が,二〇世紀にはいると,つめたい無情の収容所にかわっているのです。その理由として,社会的な要因はもちろんおおきくありますが,精神障害の概念がはっきりしてくるとともに,いくつかの精神病が不治のものとみなされるようになったこと,身体的治療法がでてくると心への働きかけが無視されるようになったこと,などを指摘しなくてはなりません。
岡田靖雄:差別の論理-魔女裁判から保安処分へ,p.23-24,勁草書房,1972.

「この本をつくるきっかけをつくってくださった羽仁五郎さん,武谷三男さん,わたしにたえず刺激をあたえつづけてくださっていた川上武さんに……」とあとがきに記されているこの本を捲り返したのは,「反精神医学は文学的に興味深い」とリプくださった小説家・宮内さんのおかげだ。岡田靖雄は必ずしも反精神医学にのみ依拠された方ではないものの,本書のなかで当時,自分が引いた線をたどると,そこに「技術論」の視点が見えてきて,面白い。

科学と技術

書店で「パブリッシャーズ・レビュー」をピックアップ。『技術システムの神話と現実』(みすず書房)の書評タイトルは「脱成長社会の『正気』の技術を求めて」,「未来世代への責任を探求する科学・技術論」だった。

このところ,科学技術に関する手頃な新書・文庫の刊行が続いているが,たとえば,このあたりの違いをどう読んでいけばよいのか,歴史観が問われるのだろう。

一般に,武谷の評論というのは,<科学的合理性>が問答無用の格別性をもち,それによって社会や文化の万象を快刀乱麻に切り捨てるというスタンスが最適だという前提がない限り,読むに堪えないものが少なくない。
吉岡斉も,『科学者は変わるか』(1984年)第三章で,武谷においては科学的精神が絶対善に祭り上げられ,正義は常に我にありという発想が前提とされていると述べている。
現代に生きる人で,武谷の前提を鵜呑みにする人はまずいないはずだ。(後略)
金森修:科学の危機,p.155,ちくま新書,2015.

武谷が八月四日にポツダム宣言の内容を読んで,『すぐに,ああ遂にアメリカは原子爆弾をつくったなと思いました。あの宣言をよく読んでみてください。『吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用』という語があります。これは間違いなく原子爆弾だと思いました』と証言するのである。

科学者ならこれが何かに思い付かないわけはない,とも証言していた。武谷はこの新聞記事を読んですぐに仁科のもとを訪ねるつもりであったが,八月に入ってのこのころには日々の動きが制限されていた。もし武谷が仁科に会いに行ったら,仁科も思想犯扱いされかねない状況であった。

(中略)

(戦後)日本学術会議内部での論争で,武谷は原子力の平和利用は原爆とどのような点が異なるのか,そこを明確にしなければならないと訴えた。そのうえで武谷は,原爆で亡くなった被爆者の死を無駄にしないためにも原子力研究は必要だが,その研究は一切軍事に用いない,利用されないとの態度が重要だとした。さ らに,原子力研究には一切の秘密性は避けるべきだ,情報公開の鉄則と,たとえばアメリカなどと秘密を共有する協定は結ばないとの政治的決断を明確に持つべきだと訴えた。

武谷はこうした点をかなり神経質になりながら,メディアで強調した。その論点には,アメリカ従属の枠組みへの鋭い批判が含まれていた。前述したが,私は武谷にも何度か会っている。武谷は歯に衣を着せぬタイプで正直に自説を披瀝するのだが,『人類の誤った方向へ科学を進ませてはならない」と言い,『自分は今のままの危ない方向に進むことを憂いている』ことを繰り返していた。
保阪正康:日本原爆開発秘録,p.214,280,新潮文庫,2015.

HAPPY

最近はDJといえば浮かぶのはトンカツだけれど,本式のDJタイムから始まるライブを見に,恵比寿に移転してから初めてリキッドルームに家族揃って出かけた。

HAPPYは京都出身の若手バンド。80年代のキンクス(Don’t forget to dance)をシュゲーザー風にアレンジしたかのような曲や,レゲエアレンジのカノン風な曲とか,久しぶりにエクレクティクなんて単語を思い出す。バラエティーに富んだ気持ちのよいライブ。

ただ,新宿にあったときも感じたが,このライブハウスのドラムの鳴り方は苦手だ。抜けが悪い。

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