無意識

「無意識」という言葉に,逃げ場としての役割を潰させえてしまったのはフロイトで,そのことはある意味で罪だと思ってきた。「無意識なんだからしかたない」でものごとから逃げられないよう,雁字搦めにしてしまったのだ。

すっかり忘れたつもりになっていたことが夢に現れた。こんなふうに夢を見てしまうと,「無意識だった」では説明つかないこともあるのだと感じた。

北千住

昭和の終わり,東武伊勢崎線を頻繁に用いるようになった4年で変わったことは,北千住,浅草,上野,新御茶ノ水といった駅が,身近になったことだった。とはいっても,その後,変わらずそれらの駅を利用しているかというと,そんなことはない。社会人になった途端,仕事で北千住に出た際,帰りがけに西口をしばらく行ったところにあった古本屋へ行く程度になった。いつの間にかその古本屋は店をたたみ(お詫び:カンパネラ書房,絶賛営業中の模様,失礼しました),その後は北千住といえば柳原界隈からの帰りに東口の古本屋へ立ち寄ることくらいしか印象がない。名画座へとときどき通った浅草は数年に一度,酒を飲むくらいでしか出かけない。上野が目的地でなく通過地点になってからもかなり経つ。新御茶ノ水駅を使うメリットはもはや雲散してしまった。

それでも,昭和60年代に北千住,浅草,上野の町がもつ匂いにふれたことで,その後,年間数回,日本各地へと出張することになったとき,自分の尺度で値踏みする地方の鄙びた盛り場をどこか近しいものを感じる。たとえば20世紀終わり頃の柳ヶ瀬や防府なんて,探検したくなるくらいの寂れ方だった。どこか,北千住や浅草と重なる。千代田線の新御茶ノ水からこっち,あの空気にとても似ていた。

このところ月に一度くらい,北千住東口の喫茶店を打ち合わせに使っている。人待ちの間,据付のブックスタンドを眺めると,全体の1/2程度を「ムー」のバックナンバーが占めている。他にも,イリーガルな人物を主人公にしたマンガや,彼らを扱った雑誌が並んでいる。めまいを起こしそうだった。一冊だけあった「ドラえもん」に,はじめてシンパシーを感じた。いや,エンパシーではない。

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか

ディックの『アンドロ羊』に出てくるバスター・フレンドリー,口調はほとんど広川太一郎だ。

その当時,正月になると都内の名画座どこかではモンティ・パイソンがかかっていた。情報誌には吹き替え版,字幕版どちらの上映かが記されていたので,選択の楽しみさえあった。かなり前に記したとおり,そうやって大塚や浅草,高田馬場あたりの名画座で年始を楽しんだ。

「アンド・ナウ」は吹き替え版の方が好きだった。だから,私はいまだに広川太一郎の声を思い出すとエリック・アイドルの姿が浮かんでくる。

『アンドロ羊』は,ところどころ記憶に残っている箇所があるものの,ストーリーをほとんど忘れてしまっている。はじめて読んだかのように面白い。

近況

仕事が立て込みはじめるとともに,数年前から発症した花粉症が今年は非道く,先週末から散々な体調に陥る。花粉症の対症薬とともに風邪薬を飲むことがあるのは,結局,風邪と同じ症状になるからだ。

花粉症の対症薬を飲み始めてから,悪夢の回数が増えた。その前とはまったく毛色の違う夢なので薬の影響に違いない。身近な人,しばらく会っていない人が日替わりで登場し,大変な目に遭遇する。分析しようもない,実に類型的な悪夢の数々。村上龍ではないけれど,結局,薬一粒で夢まで浸食されるなんて,「自己」の非力さをなさけなく思う。

再読していた『引擎/ENGINE』(新潮文庫)が終わってしまったので,『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(早川文庫)を鞄に忍ばせている。四半世紀ぶりにページを捲りなおすと,エンパシーを外在化して評価可能,なおかつそこに介在できるというのは,ディックのドラッグ体験が背景にあるのだろうかと,冒頭しばらく読んでから思い立った。少なくとも「共感の意味」に価値を見出してはいないところがシニカルだ。即物的という点からするとディックは山田風太郎に近いのかもしれない。『ユービック』の解説だったかに,そのあたり書いてあった記憶があるのだけれど,これ以外の文庫はまだ,実家の押入れに残してあるので確認できない。

SNSで喬司や裕一とやりとりする回数が増えたし,最近は学生時代の彼らと飲む機会が増えた。昌己となんて,担当教授の最終講義もあったけれど,年明けから3回飲んだことになる。30代から40代にかけて,バンド活動はさておき,連絡をとらなかった間のことをあれこれ考える。

一方的な因果関係だけれど,私にしてみると,親が他界したことが,なんだかきっかけのような気がする。一方的と書いたのは,逆が,つまり「親が元気だったから彼らと連絡をとらなかった」とはまったくいえないからだ。

再読

矢作俊彦の『引擎/ENGINE』(新潮文庫),再読。単行本刊行の際に記した記憶があるのだけれど(といいながら,確認したところ見当たらない),この凶手は傑がモデル,というか傑の物語が続かなくなったので,この凶手が出来上がったのではないかと思う。

傑の初登場は漫画『ハード・オン』で,その後,昭和の終わりの連作「東京カウボーイ」経て,『ららら科學の子』に至る。未完の「仁義」や,その再挑戦「あとは沈黙の犬」(なんだか石森章太郎の「天使編」のようだ)にも顔を出したはずだけれど,そのキャラクターに真正面向き合って取り組んだ作品は結局,生まれなかった。

そこで,この小説を仕立てたのではないかと思ったのだ。

というのも,最後の最後のくだりで,これは『ハード・オン』と繋がっているなと感じた場面があったからだ。『フィルムノワール/黒色影片』と2つに分かれた物語の片方という読み方もできるに違いない。

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