眠れる森のスパイ

というわけで,通勤の行き帰りに矢作俊彦の「眠れる森のスパイ」を捲っている。髭を剃る手持無沙汰に姜尚中と吉田司の対談本『そして,憲法九条は。』(晶文社,2005.)やら,加藤典洋の本の続きとか,いろいろあって,結局,矢部宏治さんの本は新しいことを言っているわけではなく,露悪的に言えば,広告代理店的な戦略でまとめられた一冊ではないか,というのがこのところの感想だ。

「眠れる森のスパイ」で印象に残ったネタ。その1。ここだけ引用してもわかりづらいかも知れない。小説の惹句は以前,ここにアップした。

「あの飛行艇さ。絵に描いてある二つの飛行艇だよ。一機は,間違いなくパンナムのチャイナ・クリッパーだ。戦争前から民間航空路を飛んでた飛行機だ。アメリカ大統領のエンブレムらしきものも描いてある。シリアル・ナンバーを信用するなら,それはそのとおりなんだ。だとしたら,対戦中初期のルーズヴェルトの専用機だよ。そして,その向うに舫いである飛行艇さ。何だと思う?」 「日本軍のものみたいでしたね。実は,よく見ていないんですよ」 「二式大艇さ。防衛庁の戦史研究室の連中,全員が全員,確認したよ。シリアル・ナンバーまではっきり読めた。Y-71,横浜海軍航空隊の十一型だ。――こいつは一九四二年三月三日の第二次ハワイ空襲に出撃した。その後,三月六日,ミッドウェー島偵察に向ったまま未帰還になっているんだ」 「どういうことなんですか?」 「こういうことさ。まぁ聞けよ。例のクリッパーは,一九四二年九月二十一日に,ルーズヴェルト大統領からチャーチルに英国首相専用機として戦時供与されているんだ。――と,いうことは,簡単じゃないか」 「一九四一年十二月八日から一九四二年三月六日までに,その二機が南太平洋上のどこかで翼を並べたってことですね。」 矢作俊彦:眠れる森のスパイ,第23回

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか

『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読み終えた。昨日記したうち,方向性については述べられていた。戦略をつまびらかに示す必要はないだろうけれど,一時の感情論で過ぎてしまいそうな感じは拭えない。

それよりも,矢作俊彦の文章を読むときのよい基礎資料が揃った本だと思った。

1985年に連載された「眠れる森のスパイ」はもとより,昭和天皇崩御の後に記された「一九八九年一月七日」とか二村永爾シリーズとか。「気分はもう戦争2」(2.1ではなく)のはじまりは,安保条約破棄後の日本からスタートしたし,それらを少しずつ読み返してみたい。

内田樹・高橋源一郎との有名な鼎談「少年達の一九六九」のなかの矢作俊彦の発言を拾ってみると,

  • 「(内田の考えに賛同した高橋の“自衛隊をそのまま国連に国連軍として進呈する。国連本部も広島に持ってくればいい”との発言を受けて)国連で日本は今もただの敗戦国ですよ。金持ってるだけの。元々機能しないもの,広島へ来たら牡蠣食いすぎてますます動かない」
  • 「国連なんていまだにヤルタ,ポツダム,サンフランシスコの三題話で飯食ってる組織だよ。ありえないじゃない」

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか

いきおいで『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(矢部宏治,集英社)を購入し,ペラペラと読み進めている。

テーマや資料は実に面白い。でも,語り口が善悪で終始,切り取っているようで,そのアンバランスさ加減がなさけない。矢作俊彦の「ものすごく日本人はプリミティブなんだと思う。どこかに本当に公正な正義があると信じているんじゃないか。2時間ドラマの刑事みたいにさ」という言葉のアリバイのような語り口だ。

いや,面白いんだけど,戦略が見えてこない。

このテーマで,この語り口はとにかくありえないだろう。

敗戦後論

夏休みに新古書店で購入した加藤典洋の『敗戦後論』がもう少しで読み終わる。そのまま『戦後的思考』を読み返すつもりが,こちらだけで気持ちが殺がれてきた。以前,文庫本で読んだときの感想など覚えていない。ただ,読み返してみて,佐野眞一の『東電OL殺人事件』を読んだときに似た不自然な感じがした。「ねじれ」について,矢作俊彦が語ると腑に落ちるのに,加藤典洋は全体,むりに語っているように思えるのだ。

戦争の正しさ/誤りを基本に物事を紐解いていこうとしても,ボタンの掛け違いから始まっているようなもの。第一,少なくとも餓死で亡くなった6割の兵士にとって,欠けていたのは,大義ではなく,戦略であったことはいわずもがな。

このところ,矢作俊彦が「気分はもう戦争2.1」で描くはずだった国のありかたに似た考えが現れてきつつあるように思う(ああ,まどろっこしい)。某首相のとんちんかんな動きによる,これはほとんど唯一の功名かもしれない。

北村薫

読書会の課題は北村薫の『飲めば都』(新潮文庫)だった。

戸板康二から泡坂妻夫直系の短篇推理小説家として北村薫が登場した頃,一連の作品には代替できない魅力をもっていたと思う。戸板康二の物語を新井素子の語り口で展開するというのは発明だった。

で,『飲めば都』は,いやどうしたのだろう,このぐずぐず感は。課題だったので,おかしいなと思いながらも,とにかく1回読み終えた。

1週間ほどして,気になってページを捲ってみた。ほとんど何も記憶に残っていない,そのことに慄いた。そんなことってあるだろうか。ページを閉じ読書会の日までそのままにしておいた。何も言うことはない。テレビドラマや漫画の原作,手癖で書き散らかした作品。でもなあ。

当日,地下鉄のなかで再びページを捲ってみた。何かなぞかけがあるに違いないのだ。

無理やりに気にしてしまうとするなら,それは人称の問題だ。北村薫の小説によくあるように,この小説も三人称で記されているのだけれど,語り手の出しゃばり加減が非道いというか過剰なのだ。単に才能が枯れた小説家の作品だからしかたないといってしまっては何も始まらない。もしかしたら,これは一人称の小説なのではないか。いや,そうやって読んでみる。読まなければならない,語ることを見つけるためには。

主人公の都が,しあわせな家庭生活を営めるはずはない,というのは,最初に読んだときに唯一に近く感じたことだった。この物語の続きで都は地方で結婚生活を続けてものの潰える。編集者をしながら小説家をめざしている。都が書いた第一作がこの小説だ。人称の問題はどう考えよう? 自分のことを都を読んでしまう,それは矢沢永吉が「矢沢は」と,平沢進が「ヒラサワは」と呼ぶのに近くはないか。プロレスラーが自分に「さま」を付けて「おれさま」と呼ぶのとは近くないけれど,みずからに対する絶対性のようなものは,それでもどこか似ているように思う。

矢沢も平沢も男性だ。たとえば松任谷由実が自分のことを「松任谷」ということを考えてみる。70年代は「荒井は」と言っていたのが,結婚した途端,「松任谷は」と,でも変えられるだろうか。自分のことを姓で呼ぶ所作が致命的なのは,姓が変わってしまうと絶対性は殺がれることだ。では,どうすればいいのだろうか。いや,ムロツヨシの妖怪の話ではない。そう,みずからを名前で呼んでしまえば,それは変わりようがない。だから,主人公は自分のことを都と呼び,出来のよくない小説を書き終えた。

この程度の小説だ。彼女の小説家としてのキャリアはないに等しい。何らかの理由で,北村薫が彼女の小説をみずからの名で発表した。今後,種明かしがあるに違いない。

地下鉄で15分。そんな物語をまとめた。

とでもして読まないと,読めたものではない,この小説。

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