くるりのUstreamのタワーレコードライブ聞いて,アンプラグド・セッティングでまあすごい演奏。普段は演奏能力について語ること自体,興味ないのだけど,ああいう演奏が飛び込んでくると,演奏能力はあったに越したことがないと。あたりまえだ。
で,演奏能力云々と書いたことについて,でも……と。能力と響きは違うのだと思う。
くるりのUstreamのタワーレコードライブ聞いて,アンプラグド・セッティングでまあすごい演奏。普段は演奏能力について語ること自体,興味ないのだけど,ああいう演奏が飛び込んでくると,演奏能力はあったに越したことがないと。あたりまえだ。
で,演奏能力云々と書いたことについて,でも……と。能力と響きは違うのだと思う。
くるりのインタビューを追いかけて,10数年ぶりに音楽雑誌を捲ったり手に入れたりしている。会社帰りに「MUSICA」を買い,高田馬場に着くまでで岸田繁のインタビューを読み終えた。他のページを読みながら,インタビューと写真でつくった音楽雑誌が多いなあと思った。
各誌のライターの名前で,時に編集長だったりするもので,見覚えがあるのは,「ロッキン・オン」で記事を書いていた当時,目にした人だ。そうして腑に落ちた。「ロッキン・オン」が増えただけ,「Studio Voice」が増えただけ,つまりは「アンディ・ウォーホールズ・インタビューマガジン」が増えただけのことだと。まあ,今日買った「MUSICA」のミュージシャンによりレコードレビューは加藤某が編集していた当時の「ロッキンf」を踏襲したと思うのだが。
それにしても,昔,あれだけあった楽器雑誌が淘汰されていること,にもかかわらず若手バンドの少なくとも演奏能力に関していうとここ20年ではるかに上達していることが不思議だ。
KING CRIMSON解散時(1974)のビル・ブラッフォードのコメントに「所詮,音楽は逃避の対象だから」というニュアンスのものがあったと記憶している。
昭和50年代に聞いたCRIMSONはしばしばとてもリアルな音の塊として響いた。それをすごいと感じて,鼓膜が破れそうな音量で何度も聞き続けた。
くるりの新譜「坩堝の電圧」から1日2曲ずつWebで聴いて,昨日,娘と家内はタワーレコード新宿店でのインストアトーク・ライブに出かけ,私はUstreamを辿る。しばらくぶりで音楽が恐ろしくリアルな音の塊として届く。どこかで,そこに逃避している私がいることを感じるのが,さすがに10代との違いだ。それはさておき,すばらしいCDだと思う。
義父がついでに買ってくれたのが,はじめて手にしたデジカメだった。コニカのポケットに収まるくらいの大きさで,充電池を買い足して,いまだに使うことがある。
父親のところへ出かけたときのこと。地域の写真展に出品したい写真があるというので,母親が持ち歩いていたデジカメをパソコンにつなげた。1ギガのSDカードが入っているので,撮りためた写真が数十枚出てきた。
始めからチェックし,途中を飛ばして最後から戻っていった。
撮りはじめた頃の写真を見たあとで,最近の写真を見ると,いたたまれなくなってきた。散歩の途中の景色であろうことは判るのだが,最近の写真には決定的に人物が不足している。母親が生きていた頃は,お互いに撮りあっていたのだろうし,実際,そうした写真が何枚もある。
何を思いながら,父親はファインダーを覗いているのだろう。