20年以上前の旅行写真を眺める。
いまさらいうまでのことではないが,とにかく進歩のない自分の姿が二重映しになる。ほとんど30歳の私は,現在の私と変わっていない。
強く感じるのは,友人が当時の写真から歳を経るごとに変化する様が,ほとんど同じスパンで映し出されているからだ。
20年以上前の旅行写真を眺める。
いまさらいうまでのことではないが,とにかく進歩のない自分の姿が二重映しになる。ほとんど30歳の私は,現在の私と変わっていない。
強く感じるのは,友人が当時の写真から歳を経るごとに変化する様が,ほとんど同じスパンで映し出されているからだ。
ここ数か月,さまざまに影響をもたらした事務所の引っ越しが終わった。
やれやれ。
清水良典の『あらゆる小説は模倣である。』(幻冬舎新書)を読んでいる。矢作俊彦の『凝った死顔』を例にあげているのはいいものの,ラジオドラマ「マンハッタン・オプ」が2003年まで続いていたという表記は非道い。
文庫には,「この作品は,『FM東京』で1980年5月から1983年9月まで放送されたラジオ用台本から,厳選して抜粋し,加筆,修正したものです」と記されている。
これは編集者が機械的に「1980年~3年」とでも書いた原稿に手を入れ,結果,「1980年~2003年」となってしまったところを,著者もチェックせずに刊行されたものだろう。
いらぬおせっかいとはこういうことを言うのだ。
Brian Enoの“Nerve Net”を久しぶりに聴く。1992年のリリースだというので,ブラックボックスに嵌り込んでいた1992-1993年のイメージが少しクリアになった。
「ハネムーン・イン・ベガス」(なぜ,DVD化されていないのだろう?)の1993年公開と合わせて。
数えてみると,今の家にたどり着くまで10回引っ越しをしている。記憶にない最初の家を除くと,日吉の社宅では三輪車を使っていたけれど,その後はすべて自転車がそばにあった。
一人暮らしのときであっても,引っ越しとともに自転車を手に入れたり,前の家で使っていたものを抱えてきた。何代目,もとい何台目になるかわからないが,自転車のない生活をほとんど送ってこなかったことに驚く。
運動神経が発達しているわけではないのに,おかげで自転車の運転だけは子どもの頃から得意だった。ウイリーをして道路を闊歩する友だちもいた。段差があればそれを踏み台にしてジャンプもどきを繰り返す。造成地にできた土砂の山へ自転車を担ぎ上げ,斜面をフルスピードで滑り降り,そこからジャンプもする。稲を刈った後の田圃で切り株を押しつぶしながらターンを何度を試みる。それだけで,ただただ面白かった。
古本屋をめぐるのに自転車は今も欠かせない。
そんな道具は,たぶん他にない。
家族を伴って多摩センターの奥まで買い物に出かけながら,ときどき昨年の3月11日からしばらくのことを思い出していた。
次々と起きたこと,起きることに対して,「想像力の欠如」のみを「禁止」に置くことでどれだけ真摯に向き合ったか定かでない。知ることと責任の在処のバランス感覚は必ずしも道具にはならないことを,どこかで嫌というくらい思い知らされたように記憶している。
私は音楽をリアルに聞いただろうか。
数日前,DGMのPodcastでKing Crimsonの“Islands”の3ピース(たぶん)アウトテイクがあがり,キース・ティペット抜きのバージョンを聞いた。30年,40年を飛び越えて届く音楽があることに,心底ホッとした。
脈絡なく,ただ忘れないように。