週末

土曜日は午後から事務所に印刷所の人がくる。午後にはマンションの火災装置点検。午前中は家を片付け,午後から事務所で仕事。15時過ぎに打ち合わせが終わり,家内と待ち合わせて高円寺まで出る。

東中野で遅い昼食をとる。風が強い。というか寒い。古本さんかくやまを覘く。1,000円以上で20%オフというので,とりあえず1,000円分購入。ドラマは30%オフとのことで,こちらでも購入。スーパーマーケットで買い物をして,夕飯用にお弁当を調達して帰宅。自活しはじめた娘がいなくなると,人が動くことで発生する埃の量が減った感じがする。これから大泉学園に住んでいた頃の家に似た様子に戻っていくのだろうか。

日曜日は昼前に事務所に行く,Storesに数点登録し。仕事を済ませて15時くらいに帰宅。昼食をとり,仕事の続き。夕方に1時間ほど眠る。裏手のスーパーマーケットに買い物に行き,そのあと,夕飯をとる。

ヴァージニア・ウルフの本が増えた。読んでいないが。

Nightmare

花粉症の時期となり,とりあえず寝る前の薬を飲み続けて1週間ほど。舌下免疫療法の効果はどうなったのかよくわからない。妙なことに,飲み始めて数日は高齢の「副作用:悪夢」を見ることがなかった。それがここ数日,悪夢続きだ。副作用も平常運転になったようだ。

一日,事務所で仕事。POPや本を発送しに運送会社や郵便局で行くのは運動代わり。積み残しの仕事が少なくなってきたので,伸浩がもってきた期限切れの缶チューハイを1本。アルコール度数7%というのはなかなかきつく,2/3ほどで眠くなってしまった。残りを流しにあけて帰宅。家内と夕飯をとる。

昼は川向うのあんぷら屋に入り,カキフライが乗ったカレー。染の小道のときに入るくらいだったけれど,ときどき入ることにしよう。

ブックオフの均一棚で見つけた生島次郎『浪漫疾風録』(中公文庫)を半分少しまで読み終えた。椎名誠の『新橋烏森口青春篇』と似た印象。時代は違うのだけれど。あと,中島らものあの本か。

で,思い出した。坂口尚『石の花』1を買ったのだった。B5判でまとめられた迫力ある仕立て。新潮社ハードカバーと同じく5巻本らしく,B5判で揃えて,ハードカバーは整理しようかと思いながらページを捲る。

技術と表現の問題はいたるところで起きている。先に音楽でそれはおきたような気がする。矢作俊彦がアニメーションについて,フルアニメーションとストップアニメーションを比較して,どこまで見せるかという視点で,フルアニメーションの限界について語ったことがある。つまり毛穴まで描いたフルアニメーションが「面白いか」というと結局,それは面白さを左右するものではないということ。ストップアニメーションであっても受け手にとってはその解像度だから理解できる作品というものがあるということではないか,ざっくり括ってしまうと。

今回刊行された『石の花』は原画をスキャンし直し,レタッチしたものだそうだ。その作業でリリースするのには,デジタルフォーマットのほうがふさわしいのではないかと,購入した本を眺めながら考えた。

つまりドットで潰していく(という表現が妥当なのかわからないが)印刷データの特性が刷り上がりに影響するのではないかということだ。写真製版ではなく,CTPで刷版をつくる現在の印刷工程が抱える問題といえばよいのか。品質として高低がつくものではないとは思うものの,写真製版時の焼き時間の加減などで,線がシャープに刷り上がったりぼってりとして刷り上がったりする違いを感じていた目からすると,CTPの刷り上がりはシャープに感じられない場合が少なくない。『石の花』も漫画ではなく,原画を再現していくコンセプトとして見たほうがよいのではないだろうか。

石森章太郎は版面の1.5倍の用紙に原画を描いたと永井豪が語っている。つまり,1.5倍の大きさを縮小して緻密に見せるという手段をとっていたのだ。石森章太郎にとって原画が最終着地点ではない。ざら紙に特色で印刷されたものを見据えて描いていたと思われる。要はどのように印刷されるか,だ。

複製芸術としての漫画を考えるとき,そうした向き合い方をどこか前提とする必要があるのではないだろうか。近年,漫画原画の複製で単行本を作る企画があるものの,それらは漫画ではなく漫画原画として眺める本だととらえたほうがすっきりする。

火水

2月に入ったものの,昨日転倒して打った膝の痛さはなかなか引かない。

早々に新刊の見本が届く。1年かけてつくったもので,途中,とんでもないことがたくさんあった。11時過ぎに見本10冊をもって高田馬場まで。著者と間をつないでいただいた方にお渡しする。芳林堂書店が入ったビルの地下で昼食。日本橋経由で赤坂まで。弁護士と打ち合わせ。帰ってくると伸浩からメール。19時くらいに事務所にくるという。請求書を作り終わったころにやってきた。消費期限切れの缶チューハイを10本くらいもってきた。昌己と飲んだ居酒屋に入ってあれこれ話す。20時半頃別れて帰宅。

水曜日は一日,事務所で仕事。膝の痛さは相変わらず。ただ,少し楽になったかもしれない。夕方に徹からメッセンジャー経由で連絡が入る。19時くらいに事務所にくるという。なんだか学生時代みたいな感じだな。で,事務所で落ち合い,下落合のラーメン屋まで行く。こ奴がこんなにラーメン好きだったことをここ数年で知った。この店がオープンして20年くらいだと思い,店主に尋ねるとちょうど20年とのこと。遅れて家内がやってきたものの,客がたまってきたので,徹と先に出る。駅で別れ,高田馬場まで行く。ブックオフで文庫本を見ていると家内がやってきた。文庫本3冊買って帰宅。

とりあえず風呂に入れるくらいには回復しつつある。風呂からあがり,テレビを観て眠る。

転倒

大学受験のとき,ステンカラーコートに両手を突っ込み,急な階段をだらだらと登って鳥居までたどりついたところで躓いて転倒。ポケットから前身ごろまできれいに裂けた。

あの頃から転倒となんだか馴染みになってしまった。30代以降,われながら「まずい」と感じた転倒が何度かある。

月曜日に家内が携帯電話の契約を変更するというのでついていくことになった。前日,高円寺店で夕方に空いていることを確認,家内が予約を入れたとばかり思っていた。17時に家内が事務所にやってきた。予約時間を確認すると17時20分とのこと。間に合わないかもしれない。東中野についたあたりで遅れても大丈夫か連絡したほうがよいかも,などと言いながら駅に着いた。

JRへの乗り換え方向に向かおうとすると,なんだか様子が変だ。東中野店に予約を入れたという。昨日,確認したときは予約で埋まっていたはずなんだけどと言いながら店に着く。で,結局,東中野店に予約はしておらず,入れたのは高円寺店だった。すでに予約時間を過ぎている。とりあえず高円寺店に連絡を入れると,この後,空き時間はないとのこと。

近くの店を調べて連絡したところ,中野坂上店で対応してくれることになった。大江戸線に乗り一駅。ついエスカレーターを歩きあがろうとしたところで躓いた。左膝を打ち左手をついてから右手に重心を移動,そのはずみで右の額を軽く打った。これで額から血が出たりすると難儀なのだけれど,幸いその手の傷にはならなかった。ところが,最初に打った左膝がどうにもやばそうだ。

こういう打ち方をすると,だいたいトラウザーズの膝がサクッと切れるのだけど,厚手のツイードを履いていたので,そのあたりは問題なさそうだ。ところが膝を伝わって血が踝あたりまで流れるのがわかる。やばい傷になっていなければよいけれど,やばそうだ。

とりあえず,足を引きずりながら店に行き,家内の契約変更を終える。近くのコンビニに薬局が併設されていたので,家内にそこで消毒液と滅菌綿,湿潤ガーゼを買ってもらい,タクシーで家に戻る。

風呂場に行き,おそるおそる傷口をみると,幸い横一列に裂けたようなものではなかった。お湯から温度を下げて傷口から足先までを洗い,軽くふいて処置を済ませた。

値段

1980年代が始まるほんの少し前,ときどきLPを買うようになった。通学路の半ばほどにあった新星堂に,学校帰りに寄っては品定めする。King Crimson界隈の情報を得始めた頃だったので,プログレ棚を行ったり来たりした。

キングのユーロロックコレクションシリーズは,どうもイメージ的に安っぽく思えて近寄らなかった。イーノのLPもプログレのあたりにあって,こちらも当時は買わなかった。そんな頃のことを思い出しながら,どうやってLPを選別したのだろうかと考えてみた。

当時,安いものは1枚1,980円ほど,おおむね2,300円くらい。輸入盤で米国盤は1,000円台で並んでいたけれど,英国盤は2,700円くらいした。安いのは米国盤で,次が国内盤,高いのは英国盤。音のよさもだいたい値段に比例していて,ステレオセットに大してお金をかけていない私の家であっても英国盤をかけると音の違いは歴然とした。

1枚2,300円は学生にとって手軽に出せる金額ではない。で,どうやって対価を想定していたかという話になる。七面倒くさいことを言っていても,アルバイトして稼いだお金を使ったりするわけではなく,対価のイメージは貧乏くさいものだった。ここ数日,あれこれ考えていたところ,つまりは1枚のLPにどれだけの人(ミュージシャン)がかかわったかがあって,次に曲数(多すぎてもダメだし,少なすぎても引けてしまった)。簡単に言ってしまうと,ギター1本で弾き語りでLP1枚,両面合わせて14曲なんてLPにはまず手を出さなかった。

ELPをLPで聞かなかったのは,メンバーが3人しかいなかったということが影響しているかもしれない。買うには最低でも4人分の楽器が鳴っていなければならない。曲数は多すぎてのダメ,少なすぎてもダメだ。ということで,最初に買ったKing CrimsonのLPは”Starless and Bible Black”になる。これがすばらしいアルバムだから反省する必要がなかった。

ところがイーノの”Music for Airport”あたりを引っ張り出すと,これ買ってよいのかと悩んでしまうのだ。どうも楽器の音はあまり鳴っていないみたいだ。曲は長いけれど,タイトルはシンプルすぎじゃないか。

振り返ると,貧乏くさい選び方としか言いようがないものの,当時,ロックはそれなりのお金をかけてアルバムがつくられるもの,というイメージが強かった。「お金をかけたもの」というのが基準のひとつで,それはパンクやニューウェイヴにしても変わりない。フライングリザーズだってLP出すのだからお金がかかっていると思わなければ手を出さなかった。

そうやってLPが増えるなかで1981年がやってきた。ロバート・フリップの”Let The Power Fall”がリリースされたのだ。先の例にならえば,絶対に手を出さないLPの基準が揃っている。にもかかわらず,1981年というと北村昌士のクリムゾン本が出た頃だったし,すっかりフリップのギターとブラフォードのスネア中毒になってしまっていたので,ついこのアルバムを買ってしまった。

A面1曲目からB面ラストまで,すべてフリッパートロニクスの演奏が納められたこのアルバム,買ったときは金返せと思ったものの,結局,その後,繰り返し聞くなかで愛聴盤となってしまった。恐ろしいものだ。80年代に入ると,LPを買うのに先のような暗黙の基準は少しずつ崩れていった。

CDがリリースされはじめると,ギター1本であろうが面白そうなものは買ってみることにした。セコハン市場に大量のCDが流通し,手軽に買えるパッケージになったことが大きな要因だろう。以後,四半世紀をはるかに過ぎ,10代の頃,貧乏くさい基準でLPを買おうかどうしような悩んでいたことをふと思い出す。

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