Universe

喬史からLINE。同じクラスにいた奴の名前が知りたいとのこと。この手のやりとりには頼りにならない私と裕一がしばらくあれこれやりとり。卒業アルバムを引っ張り出せばよいのだけれど,この3人,殺し屋のようにはすぐ手元に出てくるわけがない。喬史に至ってはアルバムを買っていないという。あれは強制的に買わされるものではなかったのか。

頼りになりそうな二人から夜遅くに返信。名前がわかったところで,早速,Google検索してみた。別に大切なことでもなんでもないので条件反射のようなものだ。

大手新聞社の地方版,ランチ紹介の記事のなか,毎日,ランチがたのしみだとうれしそうに語るそ奴の名前がみつかった。写真が掲載されていたものの,パッと見,知り合いとは思われない。やけに太って,記事が記事だからニコニコした一葉だった。体型については,ひとのことを言えたものではないが。

SNSはFacebookをクローズドで使う以外,頑なに手を出さない徹とこの間,メッセンジャーでやりとり。「おぼえているよ。奴のアパートでブレイクダンスを見せられた」という無茶苦茶面白いエピソードを放ってきたけれど,奴を覚えているかどうか知りたいのではなくて,名前が知りたいのだというと「覚えてないな」。徹は人の下宿にきて,ヒンズースクワットをやって帰っていったのだけど,忘れているのだろうな。

6/16

誤植やら出版契約書に則ってクレジットが表記されていないだとか,別々の企画で対応すべきことがいくつも出てきた。誤植の件はさておき,クレジット表記については昌己に相談すると,当初考えていた対応をとらずに済みそうな按配。ホッとした。

19時前に退社。高田馬場でドトールに入り,校正の赤字合わせ。久しぶりに芳林堂書店に行き,「本の雑誌」とアーサー・マッケンの文庫本を購入して帰宅。

アーサー・マッケンの小説を最初に読んだのは,『夢の丘』が文庫に入ったときだったと思う。ラヴクラフト系の小説は結局,他の小説家に移ってもラヴクラフトに戻るしかない隘路だと感じたなか,唯一,アーサー・マッケンの『夢の丘』は違うなと思った。

中井英夫の『虚無への供物』からスタートし,講談社文庫の黒カバーで夢野久作,小栗虫太郎,日影丈吉,ウォルポールまで辿る。あとは結局,角川文庫の独壇場で,そのうちに推理創元文庫と現代教養文庫,中公文庫あたりを行き来するようになる。昭和50年代の読書体験を思い返す。結局,矢作俊彦がこれらの作品を一掃するのだから,小説家との出会いは妙なものだ。

アーサー・マッケンの小説は,思えば,狭く足りない知識を後生大事に抱え世の中に出ざるを得ないものにとっては,福音のように感じた気がする。その後,世の中,それでは通じないことにぶつかり続けるのだけれど。「パンの大神」の最初あたりを読みながら,平沢っぽいなあと苦笑してしまった。

6/14

昨日バグった請求書の件でSEに連絡。午後になり,概要がわかり,先に清算スミの項目を二重に計上していたことに気づく。いやはや。各サイトに新刊のデータを登録し,営業関係の仕事を一区切り。原稿を読み,著者にメール。20時前に退社。雨が降っている。帰宅後,夕飯をとり,サイトの更新など。

仕掛の大きな本について,搬入のめどがついたので,今月後半の打ち合わせに向けて,もろもろ準備をすすめなければならない。了解が得られれば,やっと会社の登記を始めることになる。

万事が遅いのは生まれついてのことで,いくつもの局面でそう感じたことを思い返すことは容易い。ただ,ときどき早めに手を打つことがあって,しかしそれが奏功したためしがないことも事実なのだ。自分のペースですすめるにこしたことはない。

上がり框

本来,別のサイトに記すべきところ,おいおい整理していくことにする。

土曜日は10時過ぎに事務所に行く。折り畳み式のテーブルと椅子を持ち込む。家に戻り,本をカートに積んで再び事務所に。値付けはしていないし,本も拭き終っていない。玄関先に書棚もセットしていない。上がり框に本を並べるだけでは恰好がつかないので,部屋のなかに並べた。11時半くらいからとりあえず第1回上がり框古本市を開催した。

入り口の引き戸を10cmほど開け,そこに百均で買ってきたイーゼルを立てて,開いていくことはわかるようにした。近寄ってよく見なければわからないほどのサインではあるものの。

お客さんがくることは想定せず,Kindle Fireをスピーカーにつなげ曲を流しながら,原稿の素読みをすすめる。14時くらいにはじめてのお客さんが入ってきた。まさかと思ったものの,いろいろな人がいるものだ。

並べたといっても,さらっとしたものばかり。取っつきやすかったのか「釣りキチ三平」を数冊まとめて買って行かれた。値付けしていないので,指値でよいということにした。

家内が交代にきたので,自転車で近くの立ち食い蕎麦屋まで行く。戻ってきてから16時過ぎに片づけ始める。17時半くらいまでいて帰宅。たいしたことをしていないにもかかわらず疲れてしまう。1時間ほど眠ってから夕飯をとる。

日曜日は,昼に事務所(茗荷谷のほう)に倉庫から伝票を送ってもらったので,会社まで。伝票が到着したのは15時くらい。そこから1件,請求書をつくっていたところ,先月の締めで計上した伝票が今月も計上されているのを見つける。請求書は発送しなければならないので,とりあえず赤で修正をかけて発送。今日はどうも段取りが悪い。

家内と吉祥寺で待ち合わせたので,17時過ぎに会社を出る。順調に乗り換え,30分くらいで到着。昌己に教えてもらった新しい店,古本のんきに寄る。店のつくりは無理していないし,並んでいる本のラインナップがよい。昌己が供出したのではないかと思ってしまった。「LaLa」に「エスの解放」最終回が掲った号があったのでつい,買ってしまった。よみた屋に寄った後,夕飯用にカレーを買って帰る。吉祥寺に着いたかたりから,一日のタイミングの悪さが失せた感じがした。

まったく関係ないけれど,WordPressに移行してから9年近くになる。CloverDiaryをこつこつと利用していた時間よりも長くなったのか。

Block

明日の上り框古本市の準備をしながらツイッターのタイムラインをときどき眺める。平沢進がまたぞろよろしく,あれかこれかの二元論をかましている。なんだろうな。スピノザにならい何らかの確信をもっているならばガイドラインになり得るかもしれないが,そうでないかぎり,他者操作だろう,これじゃ。

現象,実体,本質は武谷三男の三段階論で,ただ,これが通用するのはなにがしかの確信をもっていてのこと。徒手空拳で現象に本質があることを確信できはしない。

以前書いたかもしれないが,ライブ「ガラパゴス島の待ち伏せ男」を終えた後のインタビューで,このライブで取り入れたサラウンドから話が広がり,フロアの(だったと思う)五感をコントロールしたいと軽く話した箇所が印象に残っている。後に,ファンは容易く動員され得ることが怖くなったとも話したように思うけれど,平沢にはその手の欲望が見え隠れする。

ときどき,平沢のツイートにレスを付けて返す。平沢のツイートはレスの数が多いので,それは特別なことではない。で,前のツイートに,確信の件をぶっつけて,次のツイートに対し,「他者を操作したい欲望,みえみえだなあ」とぶっつけた。これを返すと,仮に目にしたときはとても嫌な思いをするだろうな,と頭によぎる。すくなくとも自分では他者と距離感をとっていると思っているだろうから。距離感はもはや遠近法の問題ではない。他のツイートはそのまま打つのに,このツイートだけは一度,メモに打ってみてからペーストした。最低限の礼儀だ。

たぶん目に入ったのだろう。早速,ブロックされた。お,フィジカルな反応だ。ブロックされた手ごたえのようなものを感じてしまった。

その後,平沢のツイートがどのようなものか知らない。「つながりたければ私を見るな」と称していた平沢が,森岡賢の引用とはいえ「私を見て」と言うようになったあたりから,妙な場ができてしまったのだろう。この四半世紀のことを蒸し返してもしかたあるまい。辻潤は「世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである」と書いた。

吉本ばななは『どんぐり姉妹』のなかで,大切なことは検索しないという態度を示した。それにひきかえ平沢は検索しろという。単純というか,ただただ散文的な態度に陥ってしまったのだなあと思う。

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