フード,裏地付きのパーカーではほんの少し暑いくらい。19時前まで仕事。新大塚まで歩き丸の内線で池袋。中井で降り,日高屋で休憩。ウエストレイクを読む。あと1章くらい。伊野尾書店で内山純『新宿なぞとき不動産』(創元文庫)を買って帰宅。夕飯をとりテレビを観て眠る。
この場面展開はカドカワノベルズの矢作・司城だな,まったく,などと思う。
フード,裏地付きのパーカーではほんの少し暑いくらい。19時前まで仕事。新大塚まで歩き丸の内線で池袋。中井で降り,日高屋で休憩。ウエストレイクを読む。あと1章くらい。伊野尾書店で内山純『新宿なぞとき不動産』(創元文庫)を買って帰宅。夕飯をとりテレビを観て眠る。
この場面展開はカドカワノベルズの矢作・司城だな,まったく,などと思う。
赤い公園がアルバム「猛烈リトミック」をリリースする少し前,どれくらいの期間アップされていたのか覚えていないけれど,特設ページがつくられた(その後,ふつうの特設ページがつくられたので,以下,その前のもの)。このページが強烈で,インターネットでウェブログが雨後の筍のように登場する前(2004年くらいまで)のサイトをなぞったようなものだ。当時を知るものには,CIAのアナリストにサイコトラウマを探り出され,グリグリとキリをねじり込まれるかのような痛みをともなうような見事な出来だった。
つまり,トップページには累計と今日の来訪者数カウンターが付いていて,キリ番自己申告のコメントも当然,ある。強調したい文字は横に流れたり点灯したりする。使われている色はRBG256色の強烈なモノ中心で,にもかかわらず全体は昏く映る。カウンターはアクセス数把握の役割は果たすことなく,誰がアクセスしてもキリ番(もしくはその前後)だったような記憶もある。
アーカイブでたどることができた!(これ)あれこれ書くより,これを見てもらったほうが早いし,ある種のセンスは伝わるだろう。どうぞ広めてください。
本や他のサイトを参照に,手打ちでつくったホームページそのものを2014年に再現したものだ。昨年あたりにこのコンセプトを再現するとなると,フラッシュ動画からはじまりエンターページをクリック,さらに画面全体にコンテンツが広がり,こちらはただただなすすべなく,数分待ったうえで,探しているページをクリックできるような仕様になるだろうか。
アップされたばかりのページのURLを昌己に送ると,無茶苦茶よろこんだ。ただ,この手のずらし方をたのしむ層は限られているだろうし,バンドのアイディアなんだろうか。おれたちと同世代の裏方がやっているんじゃないかと勘繰ってしまうな,と,あまりにもツボを押さえたネタだったので,若干訝しむ様子がうかがわれた。
赤い公園のカウベルの入り方は,あぶらだこの伊藤を思い出させ,「つぶ」はホルガー・ヒラーの痙攣ロック,もっと遡れば,キャプテン・ビーフハートにさえつながる。引用やトレースのセンスには世代が匂うもので,この頃までの赤い公園のネタはわれわれと同世代感が匂うものだった。
アルバム後のツアーだったか忘れてしまったがEX Theaterの客電が絞られるなか,「1曲目は『つぶ』じゃないかな」などと話していた私と昌己は,まあ,吉祥寺の曼荼羅でジョン・ゾーンのライブ前,メンバーのルックスが強烈だなあと笑い合う声が,まじめな若者(せいぜい3,4歳しか違わなかったはずだけれど)の癇に触れたのか,「さえないのはお前らだろ」と聞えよがしを言われたときと,さして変わらない心根だった。
このときの1曲目は,データで流れる「木」のギターリフに合わせて,津野,歌川,藤本がステージに登場し,それぞれギター,ドラム,ベースを合せて始まるという見事なものだった。ドラムはもっと暴れて始めてもよかったかもしれないが,まあ真面目な感じではあった。
当時のライブは,同期との葛藤だったのではないかと,一度書いた記憶がある。リズム隊を中心にもっと同期を取っ払って演奏したほうが面白くなりそうな感じがした。結局,第1期時代は同期を外すことはなかったものの。
第2期になって,同期をやめたライブは新鮮だった。それでも試行錯誤は繰り返す。「消えない」の初っ端,津野,藤本がころがしに乗って始まるところは,あまり必要ないように思った。赤い公園は終始,そこじゃない感を抱え込んでいた。ここじゃない,ではなく,そこじゃない,だ。それを私は「木村拓哉風味」と名付けている。たぶん,赤い公園の木村拓哉風味は津野が抱えていたものだと思う。
第2期を見たのは水戸のライブハウスが最初で,ロッキンジャパンで観たのが最後。家内と娘がEX Theaterに行った日,私は踊ってばかりの国のライブを東京キネマ倶楽部で徹と那智君と観たはずだ。
TLに流れてきたレッパーさんという方のnoteを読んでいたら,最後のあたりで,きっちりと分析したかのように映るエントリに違和感をもっているような箇所があって,せいぜい,くるりとキュウソネコカミとのライブ後,ファンになった私であっても,似たように感じる文章ほど見つかりやすいので,あれこれ書き連ねてしまった。「キリ番」で書く内容じゃないな,これ。
朝,Storesの注文品を投函。昼にセリアに行き,梱包用封筒を買う。ダイソーは3枚入りだったはずが,こちらは2枚入りで封筒の薄さは,まるで金魚すくいのアミのよう。18時前まで仕事,帰りに駅前のクリニックに寄り,花粉症薬の処方をもらう。薬局で30分ほど待ち,薬を受け取る。高田馬場で途中下車し,日高屋で休憩。ブックオフに寄り,文庫1冊,雑誌2冊を買って帰宅。夕飯をとり,テレビを観て就寝。4月3日の踊ってばかりの国とHAPPYのライブチケットを入手した。
数年前のことぶき光インタビュー記事がTLに流れてきた。ウェブアップ当時にも読んだ記憶があるものだ。クリックしてスクロールしていく。以前,このサイトにエントリした斉藤環のネトウヨ評のロジックと正反対の視座で語られていて,何らかの創造(というとおこがましいものの)に関するかぎり,ことぶき光の視座と似たようなところをうろついてきた気がする。
斉藤環は,学ぶというロジックでやはりネトウヨを語ることに躊躇いをもったほうがよかったと思う。反射神経とはいえ,それは違う,と。
土曜日は船橋まで墓参。15時前に家を出て,16時くらいに船橋で遅めの昼食をとる。花を買ってバス停まで。バスは案の定遅れていて,墓地に着いたのはほぼ17時。サッと手を合わせた。船橋への道がおそろしいいきおいで混んでいたので,久しぶりに鎌ヶ谷大仏まで行く。途中にあったブックオフは潰れていた。新鎌ヶ谷で買い物しても帰りが面倒なので松戸まで出た。家内と分かれ,西口のブックオフをチェック。と,めまいかと思うくらいの揺れ。慌てて店内から路上,交差点の方まで行く。続けての揺れはないようだ。一度,家内と落ち合い,今度は東口のブックオフを覘く。『釣りキチ三平』のコンビニ本を買って戻る。このところ『釣りキチ三平』を見つては購入,の繰り返しで,どれくらいになったのだろう。家内とイトーヨーカドーまで行き夕飯用にお弁当を買って帰る。娘はすでに帰宅していて夕飯。テレビをみて眠る。
日曜日は雨。午後から打ち合わせ。先に出た娘が財布を忘れていたので,LINEをして追いかける。非道い雨。駅前の踏切で横断歩道の手前の段差で滑る。膝を打ち,指を地面に当てる。とりあえず駅まで行ったものの,娘の姿はなかった。こわごわ左膝をみると,トラウザーズはざっくり半周ほど割れていた。幸い,膝は打って擦りむいた程度。家に戻り,トラウザーズを履きかえる。2,3年前,高円寺の古着屋で手に入れたもので,新品で買えばかなりの品ではあるが,十分履いた。一般には転んでトラウザーズをダメにする率は私ほど多くないのだろうけれど。品川まで。大雨になっていたので,タクシーで打ち合わせ場所に行き,2時間ほど。呼んでいただいたタクシーを使い品川まで戻る。高田馬場まで行き,芳林堂書店で「本の雑誌」を買い,日高屋で休憩。池袋で夕飯用にお弁当を買って帰宅。疲れた。
ウエストレイクの『悪党たちのジャムセッション』を会社の行き帰りに読んでいる。矢作俊彦(+司城志朗)がこの手法をかなりトレースしていたことに,今さらならが気づいた。もっと言えば,新が付いて以降の『ワイルド7』もウエストレイクの手法をトレースしている。長きにわたり「パーカーものとは別」と理由もなく判断していた自分が情けない。
1970年代に入り,輝かしい未来の礎であった高度経済成長を批判,反省するかのような動きはさまざまにみられた。オイルショック以降,顕著なようにモノからヒトへのスローガンよろしく,まあ反省ならばの誹りを免れることはあるまい。
占領時代が終わり,あったはずの戦後民主主義がカッコでくくられながら高度経済成長のスローガンのもと,成人男性が勤続年数ととに賃金を上昇させ,家族を養っていく体制を推し進めた。養老律令を辿るまでもなく,国は国民を動員する。その動員を免れるのは,らい・癲狂のものであって,そのように名づけれた人は動員を免れる一方で,世間からパージされる。わが国の歴史はその積み重ねであるともいえ,高度成長時代にも,らい・癲狂の人は変わらぬ扱いを受けた。
医療は一方で,成人男性の職場復帰を最短ではたすための社会的機能をもつとともに,社会からパージされた人がつながる場としても機能したはずだ。ただし,病院収容により一人の患者が生み出す(この表現は語弊があるものの)経済的対価は少なくない。それを逆手にとった“商売”がいくつも動き,ときどき思い出したかのように摘発された。
当時,医師と看護婦はいずれの機能を果たす役割をもっていた。看護婦はおもに女性であり,成人男子は勤続年数に伴い賃金が上昇していくのを傍目に,寮生活で緊急の呼び出しに対応せざるを得なかった。部屋を借り,ひとりで暮らしていくに足る賃金が保証されなかったためだ。
看護婦のなかには,当時,高度経済成長からパージされた人に向き合うとともに,看護婦の置かれた状況について異議を唱える人が何人も現れた。
週末。そのひとりの方と打ち合わせたときのこと。高度経済成長から半世紀近くを経て,国会議員となったその方がある議案の採決に反対するために牛歩戦術をとった。その話をうかがったとき,数年前,その方が中心となり設立された法人の集まりで,辺野古で座り込みに参加した方の話が重なった。(たぶにそのときのメモは本サイトのどこかに残っているはず)
つまり,そこにあるのは絶望しない勇気であり,了解と変化への確信なのだ。牛歩戦術や座り込み自体で問題が解決すると考えるほど,現実認識が甘くはない。そうした働きかけで決定や行使を1分1秒でも先伸ばし,その間に私たちの社会が了解と変化を起こし得ることへの確信だ。
それはありえなかった戦後民主主義に,高度経済成長のもとで蓋をせず,もうひとつの道を探るありかただろう。何が明らかになり,何を明らかにできなかったのか。残したいのはそのことであって,私の行なったことでない。そうおっしゃる意図をようやく理解した。ほんとうに飲み込みが遅いのだ,私は。