週末

土曜日は昼過ぎまで,家で仕事。今年半ば以降の準備のようなもの。15時過ぎに家内と買い物へ。中井から歩いて東中野まで。途中,早稲田通り沿いのカフェで昼食。チリコンカンを食べる。15年くらい前,東麻布から麻布十番まで歩く途中にあった洋風居酒屋の名物がチリコンカンで,ときどき夕飯かわりに食べたことを思い出す。ブックオフまで行ったものの探している本は見つからない。文庫を3冊買い,伊野尾書店で「新潮」を購入し歩いて帰宅。しばらく準備をし,19時半からオンラインミーティング。2時間ほど参加したが,途中で退出。夕飯をとって,テレビを観る。

日曜日は昼前に歯科受診の予定があるので,早めに朝食。12時前に終わったが,財布一式をわすれてきたので取りに戻る。支払いを済ませて,そのまま会社に出る。16時半くらいまで仕事。17時に家内と池袋で待ち合わせ。三省堂の古本まつりを覘く。エド・マクべインの文庫に島田一男が解説を書いてあるものと山野浩一『ザ・クライム』,高木護『人間浮浪考』。20年くらい前に,ヤフオクに出してしまった山野浩一の単行本は,ここ数年でほとんど手元に揃った。夕飯用にお弁当を買って帰宅。少し寒くなってきた。夕飯をとり,風呂に入り,テレビを観て眠る。

テレビのCM(ビットコインのもの)に「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌が使われている。ちょうど,CM用に切り取られた箇所が,どこかP-MODELの“MONSTERS A GO GO!”と似ている。切り取られ方で,そんなふうに感じたのだろう。30年以上聴いてきたにもかかわらず,これまでまったく思わなかった。

土曜日にアガサ・クリスティーの原作をもとに三谷幸喜が脚本を書いたドラマが放送されて,録画して日曜日に観た。初めてドラマ化されたようなのだけれど,一度,観たような感じがする。

3/4

抗アレルギー薬の副作用で頭痛が起きているらしい。おまけに悪夢とくる。今日は飲むのをやめておくことにする。

18時くらいで仕事を切り上げる。帰りに,著者が探している本を見つけに中野,吉祥寺を回る予定。新井薬師前駅で降り,文林堂書店に。見つからずに矢口高雄の単行本を購入して早稲田通りに向かう。ブックオフはこのところ,面白そうな本がない。矢作俊彦の『死ぬには手頃な日』と『さまよう薔薇のように』がハードカバーで均一棚に並んでいるのは気になってしかたないものの,どちらも複数冊もっていいて,これ以上,増やしてもしかたないと。古本案内処まで歩き,均一棚から2冊セットを購入。すでに19時をまわっているので,吉祥寺は明日以降にすることに。新井薬師前駅まで戻って帰宅。夕飯をとり,本の抜書きをつくり,著者に送って眠る。土曜日のオンライン会議に誘われ,参加することに。竹内敏晴さんの『愛の侵略』を引っ張り出す。

『人新世の「資本論」』,第8章まで読み進める。日々の暮らしをどうするかを棚上げにできる(さまざまなかたちでの可能性)状況ならばまだしも,日々の延長線上で取り組むにはかなりハードルが高い気がする。ハードルが高いというか,現実的ではないような。

エッセンシャル・ワーカーへの言及のあたりはそれなりに納得するものの,あたりまえを維持するためにコモンがいかに対価を払うかと考えれば,どうなのだろうか,と。生活の維持よりも,よりよさを求めるときに,対価は不可欠に想定せざるを得ない。使用価値だといわれても,その向上に対して,いかに切り込んでいけるか。

3/3

1時間ほど遅れて出社。20時まで仕事をして帰宅。データを探す出すのに時間をとられ,思うように仕事が進まない。

『人新世の「資本論」』の終わりあたりを捲り返しながら読む。まあ,こうすればよいというモデルを出して解説する手の本ではないとはいえ,この手の語り口には読者は処方箋を求めてしまうだろうな。10年ほど前につくった本の反応を思い出した。

とはいうものの,「使用価値」に軸足をおいた産業刷新など,果たして現実的なのだろうか。いや,意見の相違や,利害関係の不一致などに対して合意をはかるときに,環境負荷を持ち出しても,それで解決するとはあまり思えないのだけれど。

『あ・じゃ・ぱん!』に登場する「イーゴリー法」よろしく,なべて一律にするところから始めようとするリフレーション派のなかに生まれる言説よりは理解しうるところがある。

3/2

雨で暖かい。夜は茗荷谷で家族と食事の予定。にもかかわらず,朝から偏頭痛。支度をし終えてから薬を飲み,午後にもう一度服薬。あまり変わらないなと思ったものの,夕方過ぎには頭痛が少しおさまってきた。

ここ数年,利用しているレストランで夕飯。この時期だから貸切で,旬の野菜や魚を用いたコース。いつものことながらとても美味しかった。今年は旬の野菜や魚が早く出回り始めているそうで,気温のせいでしょうかね,と。

帰宅後,MacBookAirのアップデート。数週間前,かけたときはうまくいかずにそのままになっていたのだ。検索すると,ESETとバッティングしているとまずいようで,アンインストール。順調にアップデートを終えた。片手で使うとなるとMacの利便性はWindowsよりはるかに上回っていると思う。

赤い公園が5月のワンマンコンサートをもって解散することになった。コンサートのチケットはとれないかもしれないが申し込みだけはしておこうと思う。申し込みできるのならば,であるが。

SARSやMERSといった感染症の広がりが,遠くない過去にあったにもかかわらず,先進国の巨大製薬会社の多くが精神安定剤やED(勃起不全)の治療薬といった儲かる薬の開発に特化し,抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していたことも,事態を深刻化させた。その代償として,先進国の大都市は,レジリエンス(障害に直面した際の復元力)を失ってしまったのだ。

p.284

パンデミック発生時に社会を守るために不可欠な人工呼吸器やマスク,消毒液は,十分な生産体制が存在しなかった。コストカット目当てに海外に工場を移転させたせいで,先進国であるはずの日本が,マスクさえも十分に作ることができなかったのである。これらはすべて,資本の価値増殖を優先して,「使用価値」を犠牲にした結果である。その結果が,危機を前にしたレジリエンスの喪失である。

p.301

『人新世の「資本論」』を読み進めながら,後半になると,言葉足らずではないか,適切なたとえなのだろうかと考えながらページを戻る箇所が少なくない。上の2か所は,医療を例にあげているのだけれど,上の例では抗ウイルス薬を開発し,投与することに対してレジリエンスととらえているようだし,下の例では国内での人工呼吸器,マスク,消毒液の生産体制をレジリエンスだととらえているようだ。

どちらも文献の引用(本サイトへの転記の際は省略)とはいえ,論旨の流れのなかで,違和感を覚えてしまう。補足をつけて引用するならまだしも,人工呼吸器とマスク,消毒液を同列に論じる(と思われる文献)をそのまま引用するのはどうなのだろう。

前のエントリに書いたとおり,ディスポーザブル製品が医療の世界に大きく入ってきた1970年代以前,マスクはディスポーザブルでなく,洗って必要なときに使うようになっていた。蒸気とガーゼの匂いをかぐと風邪で学校を休んだ記憶が蘇るくらいに。

人工呼吸器はディスポーザブル製品ではないし,かなり強引なたとえのように思えた。というあたりを,戻りながら読む。

3/1

花粉症の症状を相変わらず思い出せない。鼻や咳は少し反応があるものの,目のかゆみはほとんどない。問題は頭痛だ。偏頭痛もちだから,ときどき頭痛が起きる。抗アレルギー薬を飲んでも頭痛が起きることはある。で,花粉症でも頭痛が起きる。どの頭痛なのかよくわからない。実際のところ,症状は同じだ。で,ここ数日,頭痛とキャッチボール。

20時くらいまで仕事をして帰宅。夕飯後,Windows10のラップトップでWordPressサイトづくり。XAMPPに既存のサイトを再現したものの,手を加えようとすると元サイトに飛んでします。バックアップデータ上のURLを変更したのだけれど(ただ,変更すべき2か所のうち,1か所がみつからないので,そのためかもしれない)。

『人新世の「資本論」』はあと数十ページで読み終わる。前半のまるで五島勉のような語り口は途中から潜まり,後半になると,提言の具体例にどうも詰めの甘さが目につく。

たとえば,ディスポ―ザブル製品をどのような文脈でとらえるかと考えたとき,価値と使用価値のあたりで示されている内容からすると,国内でディスポ―ザブルのマスクをつくれ,と主張しているように読み取れる。ディスポーザブルマスクの出自からたどると,1970年代に医療器具が軒並み,ディポーザブル製品に代わっていった。そのことによる感染リスクの低減は恩恵であったものの,それまで中材などで働いていた人員の削減,産業廃棄物の増加など,デメリットは少なくない。

使用価値からみて,ディスポーザブル製品を容認し,みずからつくり使っていくことを是としているようなのだけれど,どうも本書の趣旨からするとそぐわない気がする。結局,コモンズを自主管理するときに,利便性とコストパフォーマンスがちらつく局面が常にあらわれると思う。それを,道義的なもので軌道を調整していく,倫理で軌道を調整していくことは可能なのだろうか。最近,この手の論考が少なくないものの。

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