眠れる森のスパイ
- 連載:「週刊宝石」(光文社,1985)
1度も落とすことなく,1年間の連載が完結した奇跡ともいえる作品。
谷口ジロー画による連作漫画「オフィシャル・スパイ・ハンドブック」シリーズの長編として企画された可能性がある。
昭和末期にまとめあげるタイミングを逃したためか,平成に入ってから形を変え,さまざまな連載で本小説のバリエーションを読むことができたのは幸運といえるのだろうか。
連載開始にあたり,「次号より始まる新連載小説は全世界を舞台に独自のスタイルの作品を次々と発表している 矢作俊彦氏が,パリ,ニューヨーク,東京の国際都市をめぐるスパイ小説に挑戦します。さし絵は名コンビの谷口ジロー氏。ご期待ください。」という惹句に続き,以下のような「作者のことば」が寄せられている。
彼は,私の高校時代の友人だった。
本当に優れた人間が,しかるべき努力の末,行くべき大学の法学部を,何のとどこおりもなく卒業し,そうした人間が求めるべき試験に受かり,しかもそうした人間が本来望みはしないと思える官庁に入った。
なんとなくそうなったのだと彼は言った。『二年間のアメリカ留学で,少し遅くなっちゃったからね』,
――我々の学年は,一九六九年,入試が中止されたせいですでに一年『遅くなっちゃって』いたのだ。彼は,合計,三年は『遅くなっちゃって』いた。おまけに,その時点で彼にはアメリカから連れて来たワイフがいた。五年たった。
我々は再会し,日比谷公園を見下ろすバァで酒を二杯ずつ飲んだ。
『今,俺,スパイをやってるんだぜ』と,彼は言い,出向している官庁の名とセクションを教えてくれた。
『ノー・シークレット・エージェントなんだぜ,日本のスパイってのは。だって,おまえ,領収証を集めなくちゃあなんないからな』さらに五年たった。彼は日本からいなくなった。モスクワの裏通りで射たれたのでもなければ,ベイルートに姿を消したわけでもない。別のスペシャリスムを強制されて,出身官庁へ戻れそうにない自分に厭気がさし,IMFに再就職したのだ。
このスパイ小説は,まったく架空の物語だ。私は彼といろいろな話をしたが,彼のことをこれっぽっちもモデル化などしていない。