白い病気


場面が変わって,同じころのある一家の夕餉。父親は元帥を信奉し,娘と息子は職が不足する原因は親の世代がいつまでも現役だから,限られた椅子をさっさと寄こせと不満たらたらだ。舞台上では実際にスープがつくり始められ,湯気が広がり,客席までその匂いが届く。白い病気=感染症のイメージが白・無であるのとは対照的な手ごたえを感じさせる。ますます白い病気の不気味さが舞台と客性を覆う。

治療法を共有しないまま,その功績を新聞記者から取材されるガレーン。白い病気を治療する条件として,世界中が平和協定を結ぶことを示す。このあたりの展開にケストナーの「どうぶつ会議」をまず,思い出した。石森章太郎の中編「大侵略」にも共通する。石森は白い病気の代わりに水爆を無効化/思いのままに爆発させる技術を完成させた科学者を描いているのだけれど。

白い病気の患者は45~50歳以上ばかり。最初は首に白い斑点が現れ,そこに痛みを感じなくなる。発症から数か月のうちに,強烈な悪臭とともに肉・皮が剥がれ落ちていき,苦痛のなかで命を落とす。対症療法(?)は,消臭と最後はモルヒネによる安楽死。

ガレーンの薬を見かけだけ似せた単なるビタミン剤を根治薬と称し,それを売りに開業する若手医師。その動作がまるで手塚マンガのようだった。

平和条約と治療を取引条件にしたガレーンは病院を追い出される。白い病気に対して,治せる=ガレーン,と治せない=ジーゲリウス・若手という軸が生まれる。面白いのは,ジーゲリウス自らが「白い病気はここでは治せない」と言ってしまうことだ。実際に「この病院では治せない」という言葉を聞くことはほとんどあるまい。代わりに「この病気は治らない」と説明されることのほうが圧倒的に多いだろう。(つづきます)

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