川崎

正式には,私が生まれたときに住んでいたのは矢向だったと聞いたことがある。生後数か月で日吉に引っ越し,小学校に上がって半年後,北関東に移った。横浜市生まれではあるものの,鶴見から日吉とほとんど川崎の植民地を移動したわけで,ヨコハマ生まれとは名乗れない。父親の会社には社宅,または会社が借り上げた一戸建てがあった。父親が定年まで家を買わなかったのは,日本風の経営を是とする会社に勤めていたからだったのだろう。私は4校の小学校を渡り歩くことになった。おかげで引っ越しには慣れたものの,だからといって,どうのこうのということはない。

矢向から一本橋を越えて日吉に移ったときのことは覚えていない。それでも子どもの頃のエピソードは酒蓋ひっくり返しゲームをはじめ,いくつも記憶に残っている。笑い話のようだけれど,親に連れられて渋谷に生地を買いに出かけたり用事に行く前に,日吉や川崎に出て洋服や靴を買ってもらった記憶がある。学生時代,喬史にその話をネタのように伝えると,「買い物に行く準備に買い物に行くのかよ。準備の準備にも買い物してたら,いつになっても買い物にいけやしないな」と爆笑されたが,実際そんな感じだったのだからしかたない。

川崎というのは,だから買い物に行く準備に出かける町,くらいの印象しかないのだ。当時,叔母が川崎のキャノンに勤めていたものの,住んでいたのは溝の口の南武線沿いのアパートだった。日吉から溝の口に行くのに川崎は通らない。いつまでたっても武蔵小杉が南武線への乗り換え駅という印象しかないのは,当時,何度もそうやって利用したからだ。

本当かどうか知らないけれど(検索してみたところ「うそ」だったようだ),加瀬邦彦は北加瀬に住んでいたので名字に「加瀬」とつけたと,母親が訳知り顔で言ったことを思い出す。「矢上川の土手でギターを弾いていた若者を何度も見たことがあって,あれが後のワイルドワンズになったのよ」と。

矢上川はとっくの昔から汚れていたが,その土手には土筆や蓮華草が賑やかに咲いていた。私たちの一番の遊び場は工場に置かれた土管だった。その一方で,バス停に続く道沿いの塀の上や,そして土手でもよく遊んだ。

かなり時間が経った昭和の終わり,クラブチッタでイベントがあり,取材も兼ねて出かけたことがある。初めて川崎の南側に足を踏み入れた。東京スカパラダイスオーケストラがデビューしたての頃で,ランキンタクシーだとか,あのあたりのメンバーが揃ったイベントだった。まるで駅から遠い大宮フリークスに出かけるような感じでライブハウスまで歩いた記憶がある。

磯部涼『ルポ川崎』(サイゾー)を読み終えて,川崎の北側について,あまり触れられていないことが気になった(一部,登戸あたりの話が登場するものの)。読み始めると,途中でページを止めることができなくなり,昨日の帰り,池袋で生ビールを飲みながら最後の30ページほどを読んだ。面白かった。

数年前。大師線で小島新田に降りたときのことは以前,書いたはずだ。何だかすごいところに来てしまったという印象で,そこから仕事で待ち合わせの研究所まで歩いて20分ほど,見たことのないような,もしくは見ていたはずなのにすっかり記憶から失せてしまったかのような景色が続き,あちこち眺めずにはいられなかった。

土手の向こうに羽田空港があって,こっちに向かって飛行機が次々に降りてくる。右手には工場,そこに続く道路。国道四号線沿線より即物的な景色があることに驚いた。いや,淀川の西,姫島から千船あたりの殺伐とした景色とつながっているかのように感じたのだった。

あまりにもったいなくて,タクシーやバスを使わずに,あちらこちらに目をやりながら駅と研究所の間を歩いてしまった。

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