野生のベリージャム


彼とはじめて会ったの私がまだ,西新宿のオフィスにいた頃のことだ。上司に呼ばれて打ち合わせブースに行くと,日本人離れした長身,短髪で彫りの深い男性が立っていた。“アラブ系のジャン・レノ”という形容だけで他に言葉を加える必要がない容姿だった。

当時,私が抱えていた仕事は佳境に入り,イラスト作成作業を始めることになった。以前,売り込みにきた彼に上司が声をかけたのだ。元々は設計事務所に勤務していたものの,請われてその世界のイラストを受けるようになり,いつの間にかそちらのほうが専門になってしまったという。本郷追分の鄙びた共同ビルの一室で,手動写植を打ちながら仕事をしている方にイラストをお願いした経験はあったものの,本式のイラストレーターと仕事をするのははじめての経験だった。

ほどなくしてやりとりが始まった。私は,その仕事のやりかたを彼に教えてもらった。ありえない構図の原稿を渡しては,この箇所はどうなっているのか著者に確認してほしいと連絡を受けることがしばしばだった。それまで自分がいかにわかったつもりで仕事を依頼し,にもかかわらず何もわからないままであったか,彼から確認の連絡を受けるたびに痛感した。会社から給料を得ていたものの,私はアマチュアだった。

少しずつイラストができあがってきた。彼は写植を貼るとき,印画紙をカッターで切り取り張り付けると,印刷所で製版する際,影が出てしまうからといって,印画紙の厚みを極力薄くするため削ぎ落としていると聞いた。プロの仕事はそういうものかと,まるでアメリカ人のようなプロ信奉者になってしまいそうだった。

そうならなかったのは,他のイラストレーターの仕事を見ていたからだ。彼の仕事が特殊なのだった。あるイラストレーターは当時,Macを使って作品を仕上げていた。原稿を渡すと,それをスキャナで取り込み,線やベタで少し変更を加える。文字を打ち込んで校正紙はプリントアウトされて出てきた。トレースからこの世界に入った“プロ”に,決定的に不足しているのはデッサン力だ。線や構図で遠近感を付けたり,プロポーションが自然ととれてしまったり,そういった能力はほとんどもたない人があたりまえに仕事を受けている例は,現在に至るまで少なくない。 入稿から早々に届いた校正紙を眺めながら,私はまだ刊行に至らない彼の仕事と比較した。溜息をついては,赤字を入れ,かわり映えのしない再校正のイラストがたまっていった。

約束がたびたび反故されるようになった。「締切さえ守ればどんな作品をあげてもいい」のがプロなのか,「締切を落とさなければ,どれだけ締切を延ばしてもいい作品を仕上げる」のがプロなのか。矢作俊彦が昔,もちろん後者がプロだと語った隣で「締切をまもっていい作品を仕上げるのがいちばんいいですよね」と突っ込みを入れた編集者の気持ちが,そのときはよく判った。

「一度,スケジュールの打ち合わせをお願いします」

残り数十%ほどになったとはいえ,そのイラスト原稿が揃わなければ,本の刊行のめどは立たない。彼の仕事場に出かけたからといって,簡単にイラストが入手できるとは思わなかったものの,指をくわえて待っていられる段階ではなかった。その頃,彼の事務所は山手線から放射状に延びる私鉄で1時間ほどの場所にあった。今となってはどうやって事務所まで辿り着いたのかは記憶にない。事務所は普通の一軒家で,台所の隣にある八畳ほどが仕事場だった。手前奥には仕切られた部屋があって,そこは撮影用の部屋なのだという。デッサンに歪みが出てくると,自らモデルとなって依頼原稿のポーズをとって撮影し,それをもとに原稿を仕上げていく。どうりで彼が描く人体がときどき彼に似ているわけだ。とりあえず,スケジュールを調整しなおした。その予定で仕事を仕上げてもらうことを了解してもらったものの,これまでの経過からすると,遅れ遅れになるのは目に見えていた。それでもスケジュールを立てないことにははじまらない。そこまで数十分で片づいた。

「駅まで送りますよ。上手い喫茶店があるんで,行ってみませんか。でも,出るまでちょっと待っててください」

そういうと,散らかった辺りを片づけはじめた。

「一度家の外に出たら,帰ってこれないかもしれないですよね。ぼくは帰ってこられなくても恥ずかしくないように片づけてから家を出るんです」

恥ずかしいくらいなら仕事を約束通り仕上げるのを優先してほしい,まだ20代の半ばだった私はそう思った。

彼の仕事が遅かったのは,細部にわたり納得するまで絵を描き始めないところに大きな理由があったのだけれど,加えて,依頼された仕事は断らないというポリシーをもっていたことが遅れがちの納期に少なからず影響していたと思う。3,4か月で終わると見込んでいた仕事が,半年経っても50%程度しか完成しなかった。全体の進行が遅れている大きな原因が彼のイラストの出来上がりだったことは上司にも判っていたのだろう。並行する企画のイラストはトレース会社に依頼することになった。

その仕事が終わったのは,予定より半年遅れてのことだった。ミーティングブースで「点数が増えたので,かなりの額になってしまったのですが,大丈夫かな」と尋ねられた。私はバジェット管理など眼中になかったので,「請求していただければ大丈夫ですよ」と簡単に言ったものの,思えば予算がどれくらい計上されているかも知らされていなかった。

私たちはスナックなる場所に出かける習慣がなかった。これは今も変わらない。昌己や徹,喬史と入るのは居酒屋か食堂,喫茶店がいいところ。ところが世の中には,スナックなる場所で酒を飲み,食事をとることに違和感を覚えない人間が少なくない。彼はときどき,私を馴染みのスナックに連れて行ってくれた。それは赤坂だったり新大久保だったり,神保町だったりした。入り慣れていないのでそんなとき,私はやけにぎこちない動きをしていたに違いない。「借りてきた猫みたいというのはそんな様子を言うんですね」と,よくからかわれた。

一緒に仕事をしているときよりも,そうでない時期によく飲みに行った。彼はきっかり私より一回り上で(同じ誕生日だった),団塊の世代の少し下,殺伐とした70年代はじめの学生運動に入り込み,数年をそのなかで過ごしたと聞いたことがある。
「まさか,黄色いヘルメットをみると怒りが覚えるというような経験もっているわけじゃないですよね」
「えっ,どうしてそういうこと判るんだろう,不思議だな」
まるで私には見えない隣の分身に告げるかのような独特の口調でそう言われた。亡くなった上司とのやりとりで,その手の間の手には慣れていたので,話は,多くが昔のことになった。酒を飲みながら,いろいろなことを聞いたのだけれど,もちろん酒を飲みながらなので,どんな話をしたのか,ほとんどは覚えていない。

青梅街道を連れ立って大ガードまで歩きながら,あれこれ話した。娘さんと息子さんがいて,娘さんは芸能界デビューしたことや,息子さんがサッカーに熱中していること,奥さんのことも何度も聞いたように思う。地元の美人コンテストで優勝したことを少し恥ずかしそうに,たぶん「うちの奥さん」と表現していたはずだ。

彼は神田の生まれで,私などはまったく知らない日々のしきたりに則って暮らしているという。朝起きてから床につくまで,それはそれはいろいろな決まり事がある。 ガードを越えて歌舞伎町が左手に見えてあたりでの別れ際,「娘の写真集ができあがったんです」と紙袋を渡された。何と答えたものか記憶にない。続けざまに「死ぬんじゃないぞ」といわれたことは覚えている。よほど死にそうな気配が漂っていたのだろうか。百歩譲って,死にそうな人間に「死ぬんじゃないぞ」とは,まあストレートすぎるが,何とも彼らしかった。アパートに帰り,なんとなく袋の中身をみることができないまま,数か月が過ぎた。

死にそうにみられた私が家庭をもつことになり,彼の都合を聞きに,家内とともに出かけた先を記憶していない(池袋パルコだったような気がする)。レストランで50人にも満たない知人とともに披露宴とは名ばかりの食事会をすることは決まっていて,私の知人としてスピーチをお願いしたのだ。彼は心よく引き受けてくれた。

当日。身長180cmを越す彼の姿は家内の友人にとって話題の的となった。
「あの人,日本人よね」
いきなり,出自について国籍から問われる彼のルックスを,私はうらやましく思った。お願いしたスピーチはいつ終わるか判らない自己紹介から始まった。初対面の多くの人に,まず自分の人となりを説明せずにはスピーチを始められない。やはり物事には段取りが必要なのだ。ただ,彼の段取りは少し長過ぎた。手にした巻物に原稿が書いてあるようで,その残りの量を見ながら,少し落胆してしまったことを記さねばなるまい。10分以上にわたるスピーチを終え,巻物を揃えて私のほうにやってきて一言。
「おめでとう」
このときにいただいた巻物は今も寝室の引出しのなかで眠っている。

神保町や新井薬師のスナックに何度か連れていかれた。新井薬師のスナックではカラオケ付きで,彼に紹介されたイラストレーターも一緒だった。スナック,カラオケというと,上から数えたほうが早い苦手なものであり,彼とでなければ付いていきはしなかっただろう。その頃,彼の十八番は高山厳の「心凍らせて」だった。私が平沢進の曲のすばらしさを力説しても,メロディと歌詞とに無理がある,と聞く耳をもたない。それでも楽しい酒だった。お互いに論理的に話をたたんでいるつもりでも,素面でさえ苦手なのに,酒が入るものもだから,否定のための否定のような話になってしまうことしばしばだ。それでも決して決裂することがなかったのは,これまたお互い,どんなに酔っぱらっても加減を測りながら懐に入り込むバランス感覚だけは失うことがなかったからだろう。仕事を一緒にする機会はなかったこの時期,振り返るともっとも頻繁に彼と飲んでいた。

それから10年が経った。

しばらくぶりに仕事の依頼で連絡をとった。抱えていた本に彼の作品が必要だったのだ。手がけた作品をまとめて携え,東麻布の事務所にやってきた。その後,はがきとメールで幾度かやりとりした。2007年1月12日,はがきが届き,そこには手術のために入院していると記されていた。18日付のはがきがあるということは,この間,メールでお見舞いの打診をしたようだ。22日の午後1時から手術だというので,病院を確認し,その週末に訪ねた。 ベッドの上で,それでも彼は元気そうな様子だったのでホッとした。『天使と悪魔』からはじまって,病気のことは簡単に,後は昔のように世の中の理不尽さについて馬鹿な話に終始した。

20日付(たぶんお見舞いに行った直後に書かれたと思う)はがきには,

自分自身の考え方が生活を難しく苦しくしていることは分っているのに変えられない。そんな姿が浮かびあがってきます。
惑ひきて 悟りえべくも なかりつる
心を知るは,心なりけり
うる覚えの,西行さんの歌を思いだしました。
病気のもととなったストレスの最大要因が,そこにあることは疑いようもなく感じております。
せめて術後からは朝一番を笑顔で始められるよう些細なことではありますが,着実に身につくことからトライしようと考えています。

とある。

3月1日付で届いたはがきには

お誕生日,お目出度ございます。(確か3/2と記憶していたのですが…)何歳になられたのかしら。今迄調子悪く,読めなかった 『ららら科學の子」,ようやく読み始めました。次回は感想など送れると思います。

と記されている。

3月24日付でいただいたはがきには

四十数年も左手首にありました血腫瘍の切除術が行われ,先生にお願いして術中の一部始終を見せていただきました。……入院も,もうすぐに3カ月に近く,もう暫くの辛抱かなーと期待しているところです。

こんなやりとりが続き,5月の連休に退院した彼の家を訪ねたはずだ。当時,彼が住んでいたのは神保町へ地下鉄で一本で出られる駅から10分くらい歩いたところだった。駅まで迎えにきていただき,自宅でしばらく話し,駅前の居酒屋で軽く飲んだ気がする。仕事はさておき,いろいろ大変な様子を伺ったことを思い出す。その一方で,新井薬師で紹介されたイラストレーターのことを気にしていた。「時間があればホームページをつくってあげたいんだけれど,いまはむずかしくて」。

「再び手術のため,入院している」と連絡が入ったのはそれから少し後のことだったろうか。慌ただしく仕事をしていた時期であり,今度はお見舞いに行くことができなかった。

数か月後のある日。打ち合わせから戻ると,会社の机にメモが残っていた。それは彼のお姉さんから電話があったという知らせで,彼が亡くなったという内容だった。電話を受けた人に確認すると,連絡先を聞くことはできなかったというので,同じ業界で彼と仕事をしていた編集者二人に慌てて電話をかけた。ところが揃いも揃って不在時に連絡があったそうで,誰も連絡先がわからない。しばらく話しながら,「なんだか彼らしいですね」ということになった。残ったわれわれの区切りがつくことはないまま10年が過ぎた。

SNSで知り合った方の投稿から,彼の娘さんが本をまとめたと知り,その本を手に入れた。彼の話から始まるその本のページを捲った。まるで,本のなかで彼が待っていてくれたような不思議な気持ちになった。(10年ほど前,「モラリスト」のタイトルのポストを加筆して再構成。彼から届いたはがきがその後,何通か出てきたので,前後関係を修正した)

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