蔵書と古本屋に並ぶ本

土曜日は普通通り起きて,徹の家に向かった。10時過ぎに八王子みなみ野に着く。駅前の100均で軍手とエプロンを調達して,家まで歩く。よい天気で,厚手のカーディガンを羽織ってきたものの,リュックサックに放り込んでしまった。

むしくい堂さんはすでに仕事に取り掛かっていて,われわれはガレージのなかの本を少し選びながら,古紙業者にもっていってもらえるように縛っていく。2時間くらいでめどがつく。廃品回収の車が都合よく通りかかったので,運動器具や扇風機などを持って行ってもらうと,かなりすっきりとしてきた。

玄関前に大きな蜂の巣があるのを見つけた。徹がそれを処理している間,家のなかの「書庫1」を少し片づける。待ち合わせしている伸浩がなかなかやってこないので,昼飯を食べに出かけた。都内から八王子までやってきて留守にしていたら,さすがにまずいだとうろ思い,早々に済ませて家に戻る。

結局,伸浩と落ち合えずに,私は先に帰ることにした。中央線に乗っていると徹から電話がかかってきて,伸浩と会えたとのこと。いまどき携帯をもっていない伸浩にかわってもらい,中野で待ち合わせて飲むことにした。ブロードウェイの古本屋を覘いて時間を潰す。

21時くらいまであれこれ話して散会。帰りにブックオフでヴァルザー2冊を買って帰った。

で,本題。

徹の父親が残した蔵書は1万冊を越えるくらいある。古本屋さんが引き取ってくれるものを除いて,しかし,かなりの本は古紙業者に渡さざるを得ない。午後になって,むしくい堂さんが残した本を眺め,フランス哲学関係の本がそっくり残っているので,不思議に思い,手に取ってページを捲ってみた。

どれも読んだ痕跡がきちんと残っている。飾りとしてこれらの本を買ったのではなく,読みたくて,読む必要があって手に入れた本がほとんどなのだろう。ページに残った線引きやカッコに圧倒されながら,何冊かを同じように捲る。

これは古本屋に並ぶ本じゃないんだな。そう感じた自分に違和感を覚えた。古本屋に並ぶ蔵書とそうでない蔵書がある。古本屋に並ぶ蔵書には,読んだ痕跡が少なければ少ないほどよい。極論をいえば,買ったけれど読まなかった本のほうが古書店に並びやすい。

米国に留学中の友人に頼まれて,気づかないまま,前の読者により引かれた線が残ったままの文庫本を送ったときのこと。友人から,前の読者がどこに関心をもったか参考になるので,その手の本が好きなのだと返事があった。古本を読むって,それでいいんじゃないだろうか。「古本で読む」という行為は,前の読者をなかったことにしないことでもあるはずだ。

数分後,徹のお父さんが引いた線,カッコの残った本のなかから,何冊かを引っ張り出した。徹に許可をもらい,いただくことにした。もちろん,いつか読むために,だ。

少し前,有名な古書店店主が,ツイッターで,本を捲って書き込みを発見するとガーンとなぐられたような衝撃を受ける,と投稿していた。でも,蔵書ってそういうものだよな。

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