まぜる

このところ,夕飯をとろうとして入る店がことごとく満席。また,旅行者が増えたような気がする。ヴェネチアなんて9割方が観光客だったし,立場が変われば,見方が変わるのはしかたないものの,選択肢を増やす手立てをしなければ。

春分の日は,会社で仕事。昼過ぎから社長が出てきたので,キリがよいところで片づけた。強風とあたたかさ。コートを脱いで抱えて歩く。

三省堂書店池袋店で絲山秋子『絲的ココロエ』(日本評論社)をようやく手に入れた。あらためて「10 過ぎた方便」の「『ふつう』とは方便」を巡る考察はスリリング。言葉の使い方,文章の紡ぎ方に唖然としてしまう。

ジュンク堂に行き,本を探す。目当てのものは見つからなかったけれど, アネマリー・モル『多としての身体』 (水声社)があったので購入。近くのカフェで読もうと思ったら,ここも満席,どころか列をなして空席を待っている。駅地下のカフェに入り,それぞれをざっと読む。

家内と待ち合わせて,夕飯用にお弁当を買って,家に帰る。

ここでもう一つの西洋的な思い込みを紹介しておくべきだろう。それは、実在は切り分けられる存在から成り立っていて、それらは(石壁の石のように)足されうるが、(料理の材料のように)混ざり合わないという考え方だ。

アネマリー・モル『多としての身体』

「足す」でなく「混ざる」 。混ざるを数式で表すと,どういうことになるのだろう。混ざった状態は濃度で計ることができる。そうではなくて,混ざること自体だ。

1(とりあえず「全体」)から要素Aと要素Bを抽出し,再び2つの要素を足しても1A+1Bで,1(全体)にはならない,といわれ,デカルトの心身二元論がdisられることがある。では,AとBを混ぜたら,どうなのだろう。ただし,それをいかに表すかは難問だ。

1(とりあえず「全体」)から要素A(仮に「身体」)と要素B(仮に「精神」)を取り出し,再び「まぜる」。なんだか「全体」に近くなりそうだ。

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