1989

土曜日は午前中から会社。企画書をつくり,データを整理したりして17時くらいまで。『ヴィータ』が出ているはずなのだけれど,午前中,芳林堂書店,ジュンク堂,三省堂とまわって,まだ入荷していない。17時にあがり,新宿の紀伊國屋書店で探す。が,見つからない。

新宿東口のブックオフに寄り,西口にまわってミロードまで。家内,娘と待ち合わせて夕飯をとる。野菜の副菜が多い韓国料理店に入る。寒さが戻ってきてしまった。

日曜日は7時起きで徹の家まで行く。拝島経由で出かけたところ,拝島駅がおそろしく小奇麗になっている。八高線は待ち時間が長いものの,乗り換え一回で便利だ。八王子みなみ野に10時過ぎに着く。

徹の家はふすまと畳を入れ替え,一部損傷していた床も張り替えて,見違えるような佇まい。本人が「こんな家だったとは知らなかった」というのだから,様変わりだ。居間の壁紙を張り替えようと思ったそうだが,壁紙を徹の父親が選んだ時,工務店の主人が「さすがにこれは選ばないだろう」と思っていた柄を見事に選び,頑として他の柄にすることを譲らなかったそうで,そんなエピソードを聞かされたものだから,色褪せた壁紙を張り替えることはしなったという。

ガレージを片づけ,離れにつくったというシアタールームを見学。徹の部屋の距離感というものが昔からあって,学生時代から変わらず,壁と壁の間を遮るものがほとんどない。離れもソファー以外何もなく,何か観ようというので「宇宙船レッドドアーフ号」をかけた。5.1サラウンドも何もほとんど意味がなかったので,数話観て,レキシとハナレグミのライブに変えた。映像も音も迫力があった。

午後からお坊さんが読経にくるというので,近くのハンバーガー店で昼食をとって待つことにした。小一時間で終わり,2軒ほど用事を付き合って,八王子まで出た。昔からある古本屋を紹介してもらい,その後,むしくい堂さんに行く。本を一冊。しばらく話す。

駅前で徹を別れ,拝島経由で戻る。一度,家に行き,徹からゆずり受けた雑誌を置いて,家内と高田馬場まで。娘と待ち合わせて,夕飯。疲れてしまい,家に帰ってから0時すぎまで眠ってしまう。

徹から譲り受けた雑誌は1989年9月から10月あたりに刊行されたものがほとんどだ。事件そのものではなく,事件報道のされかたに,同世代がどのように反応したか,30年を経て,いろいろなことを感じる。

事件自体に対する非道性について,なんらかの異をとなえるわけなどない。

徹の部屋は2階にあって,にもかかわらず,部屋の真ん中が掘りごたつになっていた。麻雀をするにはまったく都合がよいつくりで,平成になってしばらくまで,週末に徹の部屋に集まることが少なくなかった。

事件が起きて早々,とにかく許せなかったのはレンタルビデオ店が貸出リストを警察はもとよりマスコミに渡したことだった。徹はその時期,報道が気になってしかたなく,雑誌を買っては読み,読んだそばから掘りごたつの中に放り込んでいた。

しばらく後,徹は一人暮らしを始めた。昌己もアパートを借り,その後,私も一人暮らしを始めた。すっかり話題は,事件のことよりもオウム真理教の政治活動に移っていた。1995年に至る数年間,私たちが事件のことを忘れてもしょうがないとは思うが,実際は,掘りごたつに仕舞い込んだ雑誌のことを徹は忘れていた。

私や昌己は,ときどき堀ごたつに放り込まれた雑誌のことを思い出したが,そのうちに徹をまじえて飲む機会がすっかりなくなってしまった。

家の改装のためにその部屋に入り,掘りごたつの雑誌を見つけた工務店の親方は何を思ったのだろう。古紙業者に捨てられてしまうのはあまりにも惜しい。結局,リュックサックと紙袋に分けて入れ,一式を譲り受けた。

バラで並べてもあまり意味がない。まとめて一箱古本市に並べるのがよいのだけれど,はたして売れるだろうか。

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