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午後から取材のため,13時過ぎに家を出る。寒い。そのうえ雨とくる。高田馬場で昼ごはんをとり,御茶ノ水まで。15時から18時まで取材。ビルの5階,雨風のなか,気密はまずいとのことで窓を開いている。寒くてしかたなかった。

途中の総武線で妹から電話が入る。大阪の叔母が亡くなったといとこからの連絡。取材中に電話がかかってきたものの出られず,終わってからかけ直した。今度はいとこが買い物途中とのことで,再度,折り返しの電話,という話になった。高田馬場まで戻ったあたりで電話がかかってきた。

叔母は6,7年前からリハビリ病院に入院していた。ここ10年,他人の葬儀のときくらいしか会わない叔母の家には,子どもの頃,夏休みになると1か月くらい泊りに行った。当時,『日本沈没』や『ノストラダムスの大予言』が流行った辛気臭い時期だったものの,その頃がたぶん,叔母さんの人生でもっともはりあいがあったのではないだろうか。

職人の叔父を頼って,郷里から大阪へやってきた人が何人も間借りしていた。いとこ兄弟は大人に混ざって訳知り顔。兄のほうは私より5,6歳年上だ。子どもの頃の5,6歳は遠い。兄の部屋で「週刊少年チャンピオン」を捲っていたことを思い出す。弟は私より1つ下だったので,遊んだのはだいたい彼とだった。家の前の大きな公園の記憶。角の駄菓子屋でチキンラーメンを買い,はじめて食べたのも大阪だった。

10年前,母親が亡くなったときは,すでに足が悪かったにもかかわらず,二人姉妹だったこともあり,叔母はいとこと一緒に葬儀に参列してくださった。『日本沈没』からバブルまでの15年間とその後の15年間は大して話題はならず,出てくるのは『日本沈没』前後の頃のことばかりだったことを思い出す。

関東の転勤族には想像しようがないほど,大阪には独特の文化があって,それがスピリチュアル,といえば聞こえがいいものの,新宗教,差別,祈祷など,社会学,人類学のフィールドワークに事欠かないテーマばかりだった。いまでもわからないのは祈祷で,「先生」と呼ばれる人が地域地域にいて,何か判断すべき状況になったときには先生を訪ねるという話だ。新宗教を蛇蝎のごとく嫌った叔父が,それにもかかわらず,大きな出来事の際には「先生」のもとへと足を運んだと聞く。親戚の家が特殊だったとは思えない。淀川の東西あたりでは,なんだか諸星大二郎のマンガのような話があたりまえに交わされていた。

千里や豊中に住む親戚もいたので,地域差があるのだろうかと思いもしたけれど,多少の違い程度,ときどき淀川で見聞きした様子が思い出される場面に遭遇した。東京にも,似たような文化があるはずなのだけれど,人生の半分以上を23区に暮らして,いまだ淀川で遭遇した出来事があたりまえには思われない。

電話をかけてきたいとこは,おそろしい記憶力で身近な出来事を覚えている。その話だけを聞くと,かしこい人なのだ。子どもの頃は確かに出来がよかった。ところが,社会人になってから,なかなかうまくことがすすまない。1時間以上,電話で話をしていて,記憶力はすごいにもかかわらず,判断にキレがないことに気づいた。それだけデータをもっているのだから,もっと違ったものが導き出されてもよいのではないか。もちろん,抱え込まざるを得ないものを捨て置かず,あの記憶力はすごいものだと,先に思いはするものの。もしかすると「先生」に判断を委ねざるを得なかったからなのだろうか。

諸々に理屈をたてる,その道理が因果に陥ってしまうのはどうしたことだろう。私にはそれが,まるで横溝正史の推理小説のような印象なのだ。それもまた,「先生」のせいなのだろうか。とはいえ,私は「先生」に会ったことが一度もない。

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