Cut

越谷に4年近く住んでいたことがある。そのうち2年近くは徹とほとんど毎日,家を行き来し,残りの2年ほども週のうち,かなりの時間を彼らとつるんだ。退屈した記憶がない一方で,では何がたのしかったのだろう。

日曜日に昌己夫妻と昼食をとったときのこと。奥さんが越谷出身だというので,いきおいその話になった。話しながら,ある古本屋の外観のくだりで記憶があいまいなことに気づく。

私が借りていた家は,国道4号線の西にあった。まわりは田畑ばかり。地主と思しきおおきな家がときどきある以外,めぼしい建物はなかった。移動手段は自転車だった。バス停から駅に向かったことがあったはずだけれど,あのバスはどこの駅行きだったか覚えていない。1時間に数本しかない時刻表を眺め,歩いたほうが早いと判断したことは二度,三度ではなかった。

私鉄の三駅程度は平気でペダルを漕いだ。南北10kmくらいは自転車で移動した。浦和まで15kmくらいの距離があったと思うが,何度か自転車で行ったこともある。

越谷駅までの道すがら,数軒の古本屋があって,休みの日には棚を覘きに出かけた。週に1度としても100回は越える回数,あのあたりの古本屋の棚を覘いたことになる。

にもかかわらず,位置関係の記憶が曖昧だ。宇都宮の位置関係をかなり端折っていたのに,それは似ている。

昌己の奥さんが覚えている古本屋に出かけたことはあったはずだ。店の感じや自転車を停めたときの道路の感じも覚えている。ただ,その店が元荒川の北にあったのか南だったのかとなると,すっかり記憶が覚束ない。

退屈した記憶がないという塊を抱えながらも,引っ越しを続けた徹の家まで出かけることが少なくなった頃の感覚や,目的地にたどり着くまでの光景など,もはやほとんど手繰り寄せる術のない体験があったことは事実なのだ。それらはひとたび思い出し得たとしても,すぐに忘れてしまう程度の体験だったとは思う。なおさらに,それを容易くカットしてしまった記憶を疎ましく感じるのだ。

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