陰謀説

偏頭痛のため,午後から出社。気圧のせいか,花粉症のせいか,花粉症対症療法薬のせいかわからない。18時過ぎまで仕事をして早めに帰る。池袋で途中下車。19時前ということで中華一番に入り休憩。『813』を区切りよいところまで読み,勘定を払おうとすると財布がない。出がけに,手袋を探してバッグの中身を一度出したときに入れ忘れたようだ。明日,払いにくることで了解を得る。

ブックオフに寄り,2冊購入して帰宅。Storesに音楽関係の本を数冊登録した。夕飯をとり,風呂に入って,1時過ぎに眠る。

一時,陰謀論者になってしまったという芸能人のSNS投稿が口火となって,心地悪い投稿を目にするここ数日。斎藤環さんの投稿のこのあたり。

で,ここではまったく触れられていないし,その意図もないのだろうけれど,パンク以降のロックを聴いてきた身としては,何だか居心地が悪い。「苦労して表の知識を学ぶより」と言われると見も蓋もないが,この文脈で,「苦労して表の知識を学ぶ」ことに優位性をもたせているように感じられるあたりが特に。

もとの投稿は,このようなもので,

ここに何か問題を共有するとしたら,「人の裏を読め」という対人関係の築き方だと思うし,さらに,それは人は容易く他者を操作し,操作されうるという前提を歪にとらえているゆえのことだろう。

以下,政治と人文科学を同列に扱うことの是非はさておき。

苦労というか,時間やそのための経費をかけずに,アイディアだけで作品をつくることはできる。私自身,その手の作品にそそられることが多い。それ以前に,表の知識(このエントリでは「技術」を含んでいる)を苦労して学ぶのではなく,学んでいるのであれば,人は学んでしまうものだろう。その点を苦労と形容するのはどうなのだろうか,と。

音楽でいうと,ここ数年,かなり目にするようになったテクニカルな面からの楽曲批評はよい/悪いではなく,テクニカルな面で語るならば,たとえばマイナーコードが「悲しい」という感情を引き起こすとされる因果に踏み込まなければ,それこそ知識を羅列したマウントの取り合いにすぎないと思う。斎藤環さんのツイートに戻ると,表の情報でマウントをとる現状があるから,メタレベルの裏情報でマウントをとるのであって,そこに「苦労して」とか「学ぶ」とかは関係ないだろう。

平沢進は9.11のとき,陰謀説を展開し,そのロジックによる作品をつくった。当時の作品は面白かったものの,だからといって,私は平沢のロジックに操作されることはなかった。平沢進の作品が面白く,その一方で情けないのは,他者を操作したいという欲望を隠すことなく,にもかかわらず作品で他者が操作されないところにあると思う。

まあ,平沢進の場合,マウントをとる欲望ではなく,操作することで他者に理解されたいという欲望なのだろうけれど。それは無理な注文だ。そのあたり平沢自身も了解しているのだろう。以前,投稿した「距離感」という言葉にはそうすたニュアンスが意外と見事に示されていると思う。ただ,作品ではなくツイートでそのあたりに触れると,「こ奴,ばかじゃないか」とつい反応してしまうのだけれど。(少しずつ書き足したり修正する予定)

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