赤い公園

1988年12月28日。昭和の終わりまで残りわずか。渋谷クアトロでP-MODELの凍結ライブを観た。気に入ったバンドの最後の姿を観ることになったのはこのときが初めてだ。喪失感とそれにともなうなにがしかの感情が起きたかどうかまったく覚えていない。次の体験がやってくることはなかった。バンドの最後の姿を目の前に,だからいつもとは違う感情が起きるかどうか,半世紀以上過ごしてきても慣れることはない。慣れるような質のものではないのだろうけれど。

P-MODELの次に観た,バンドの解散ライブが赤い公園ということになる。

幸い,チケットを確保できたため,家内と中野サンプラザに出かけた。13列の24(たぶん)は,ステージからみて最初の通路の前,左右ほぼ中央だ。配信があり,後日円盤にもなるだろう。カメラに映り込みそうな席だったので,後ろの人と変わってもらおうかと思っていた。平沢進と斉藤環の対談の際は,同じようにほぼ中央,平沢の真ん前でそれも一列目だったので,後ろの人に席を譲った。

新型コロナ下,観客がみなマスクを着けていることがすっかり頭から抜け落ちていた。席に着くと,立ちあがったら,ボーカルの真正面という位置だ。それにもかかわらず,後ろの人と席を交換しなかったのはマスクを着けているから大したことはないだろうと思ったからだった。

客電が消える前,「くじら12号」「ブレーメン」「バブーシュカ」などなど次々と流れる曲。そのバトンを受けるかのように暗転し開演だ。

舞台はシンプルな骨組みだけの4本の立方体。さまざまなライトが当たり,装置が変わったのではないかと思うくらいに変化する。80年代のこじつけに擬えると,これこそ赤い公園じゃないかというところだ。

オープニングは「ランドリー」。サポートギターの小出は津野のギターを抱えて,若干大き目の音でかき鳴らす。そのことよりも,とにかくこの日のライブは音がよかった。ドラムもベースもすばらしい鳴り方だった。ここ数年,フェスのテントステージやライブハウスで赤い公園の音を聴いたけれど,今日の音のよさはダントツだ。

舞台装置に音響。バンドが音を鳴らすうえで,観客としては脇に置いてしまいがちな要素があらためて大事なことをしょっぱなから感じた。それらを完備するために必要な予算やライブの収支。ここ数年,赤い公園の活動に対し,どうしても感じてしまったちぐはぐな感じを,最後の最後の払拭してくれたことと,にもかかわらず,この間,万全の体制でバンドを進めることができなかったのだなと思い至る。某巨大掲示板で,そういった視点からだけでバンドを切る言説にまったく頷首することはなかったし,いまも何の感興も湧かない。ただ,最初からこれくらいのステージを用意するチャレンジをしてほしかったと,バンド以外のあれこれに思うのだ。(続きます)

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