Block

明日の上り框古本市の準備をしながらツイッターのタイムラインをときどき眺める。平沢進がまたぞろよろしく,あれかこれかの二元論をかましている。なんだろうな。スピノザにならい何らかの確信をもっているならばガイドラインになり得るかもしれないが,そうでないかぎり,他者操作だろう,これじゃ。

現象,実体,本質は武谷三男の三段階論で,ただ,これが通用するのはなにがしかの確信をもっていてのこと。徒手空拳で現象に本質があることを確信できはしない。

以前書いたかもしれないが,ライブ「ガラパゴス島の待ち伏せ男」を終えた後のインタビューで,このライブで取り入れたサラウンドから話が広がり,フロアの(だったと思う)五感をコントロールしたいと軽く話した箇所が印象に残っている。後に,ファンは容易く動員され得ることが怖くなったとも話したように思うけれど,平沢にはその手の欲望が見え隠れする。

ときどき,平沢のツイートにレスを付けて返す。平沢のツイートはレスの数が多いので,それは特別なことではない。で,前のツイートに,確信の件をぶっつけて,次のツイートに対し,「他者を操作したい欲望,みえみえだなあ」とぶっつけた。これを返すと,仮に目にしたときはとても嫌な思いをするだろうな,と頭によぎる。すくなくとも自分では他者と距離感をとっていると思っているだろうから。距離感はもはや遠近法の問題ではない。他のツイートはそのまま打つのに,このツイートだけは一度,メモに打ってみてからペーストした。最低限の礼儀だ。

たぶん目に入ったのだろう。早速,ブロックされた。お,フィジカルな反応だ。ブロックされた手ごたえのようなものを感じてしまった。

その後,平沢のツイートがどのようなものか知らない。「つながりたければ私を見るな」と称していた平沢が,森岡賢の引用とはいえ「私を見て」と言うようになったあたりから,妙な場ができてしまったのだろう。この四半世紀のことを蒸し返してもしかたあるまい。辻潤は「世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである」と書いた。

吉本ばななは『どんぐり姉妹』のなかで,大切なことは検索しないという態度を示した。それにひきかえ平沢は検索しろという。単純というか,ただただ散文的な態度に陥ってしまったのだなあと思う。

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