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雑誌の下版まで2週間あまりで終わり,新刊の配本手配が重なり,慌ただしかった。週末は4年ぶりのみちくさ市に参加した。

何セットかある『ブロードウェイの戦車』をみちくさ市,ではなく,染の小道の事務所内古本フリマに並べようと思い,自宅からもってきていた。数日前のこと,なんとはなしにページを捲ったところ,ついつい読み進めてしまう。そんなことをしたのは,集英社新書で『永遠なる「傷だらけの天使」』が出たをの捲ったからかもしれない。

同書のなかで矢作俊彦はインタビューに答え,このようなことを言っている。

本当のハイマート・ロス,故郷喪失者っていうものを描いたドラマは『傷だらけの天使』以降,多分日本ではもう作られてないんですよ。

矢作俊彦の小説がもともと,失われたヨコハマを希求する人物を描いたものであることからして—―後に,矢作俊彦はそれを「ここではないどこか」と定義して,日活貼付撮影所のセットのなかでのヨコハマというように,より抽象化するのだけれど,ここで語られる「故郷喪失者を描いたドラマ」という括りが面白かった。

1980年代半ばには「エクスパトリエートたちのエリック・ドルフィー」を書き,「ここではないどこかへ」を経て,『ららら科學の子』は,ハイマート・ロスばかりの物語をしてまとめられた。『傷だらけの天使-魔都に天使のハンマーを』が刊行されたとき,だから,矢作俊彦の読者の多くは,その物語を『ららら科學の子』の嫡子のようにとらえた。

やっかいなのは,そのような文脈で矢作俊彦の小説を読み進めていくと,ハイマート・ロスが初手から二手にわかれていることに気づかされることだ。つまり,もう一方で,J,傑の名で登場する「彼」,『引擎』の「彼女」のように,故郷と呼べる場所をもたない出自のキャラクターがまた,ここを批評的に描くなかで登場するのである。さらにいうならば,ここではなく,彼の地での彼/彼女の物語も含めるとなると,ニューヨークのゴロウ・スギウラ,パリの辻潤はじめ,矢作俊彦の小説のほとんどにハイマート・ロスは影を落としている。

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