大泉学園

いつもより遅れて会社に行く。原稿整理などを済ませ,17時過ぎに出る。西武池袋線に乗り,久しぶりに大泉学園で降りる。ポラン書房を覗き,林竹二の本を購入。大泉小学校の坂を20年ぶりに降りていく。このあたりはあまり変わっていない。駅まで戻り,ブックオフに行く。椎名誠『銀座のカラス』(下巻)を探してたものが,それだけで並んでいたので購入。駅前の養老の滝で夕飯。20時過ぎに出て,江古田で降りる。辻邦生『光の大地』,北杜夫『楡家の人々』を買って,大江戸線経由で家に戻る。

大泉学園に住もうと決めた理由は覚えていない。学園通りをかなり歩いたところにある不動産屋でいくつかの物件を紹介され,学園町の4世帯しか入っていないアパートの契約をした。1軒が60㎡ほど,1階に2軒,2階に2軒。フローリングに畳の部屋が1部屋ついていた。

娘が生まれて1年もたたずに今のマンションを買ったので,4年と少し住んだことになる。まだ学園通りが駅を突っ切っていなかった頃で,パルコ(あれは本当にパルコだったのだろうかと思うほど小さな)のまわり,北口の込み入った区画には小さな店が何軒も店を構えていた。

その頃,大泉学園には何軒もの古本屋があった。ポラン書房は北園を越えたあたりに店を構えていて,ときどき自転車で利用した。

10数年前,須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』を手に入れた日のこと。電車のなかで冒頭の「入り口のそばの椅子」を読み終えると駅に到着。栞代わりに指を挟んで,ポラン書房に立ち寄ったことがある。画集,写真集が棚差しされた一角に,『人間とは何か 世界写真展』というタイトルの写真集が目についた。手に取って捲ると,すべてモノクロ写真。奥付は昭和40年8月5日。それにしては状態がよい。早速,私はレジに向かい勘定を済ませた。

家に帰ってから,まず写真集を眺めた。見たことのある写真は数点,ほとんどが初めて見るものばかり。続けて須賀敦子の本の続きを読みはじめると,冒頭にこんな一節があった。


いちめんの白い雪景色。そのなかで,黒い,イッセイ・ミヤケふうのゆるやかな衣装をつけた男が数人,氷の上でスケートをしている」(銀の夜)

そのマリオ・ジャコメッリという名の写真家の作品を目にしたときの話は,違う人物につながっていくのだが,さっき買った写真集に,よく似た一枚があったことを覚えていた。微妙に構図は違うものの,クレジットは確かに「Mario Giacomelli」となっている。こういう経験があるから,どうしても本屋,古本屋へ足を運んでしまう。

 

ポラン書房からもう少し新座方面に行ったところにも一軒,今,ポラン書房があるあたりにも別の古本屋があった。北口を出て左側のビルの2階にも古本屋があり,大泉小学校の坂を下り,川を越えた突き当りにも一軒の古本屋があった。

一番利用したのは,通勤の行き帰りに通る,一番最後の突き当りの古本屋で,この店が閉まるときに買ったレン・デイトンの文庫本がどうしたわけか記憶に残っている。

オズ大泉に向かう途中に小林カツ代が営むレストランがあって,何度か入ったことがある。オズ大泉には江原真二郎だったか誰かが経営するレストランがあった。東映撮影所があるためか,芸能人の姿をときどき見た。このあたりは,開発された当初,小説家が家を購入したため,それにつられたかのように編集者が多く住んでいた。出張帰り,羽田空港で別れた同業他社の編集者のうち,私を含めて3人がその頃,大泉学園に住んでいるとわかったこともある。

学園通りのアジアン雑貨店では,食事をとることができて,そこで「バリ酎」というものを初めて飲んだ。インスタントコーヒーの焼酎割だと思うのだけれど,店の主人曰く,「バリではこうやって焼酎を飲む」のだと。

大泉学園に住んだ4年と少しをめぐる記憶は尽きない。

武谷三男

武谷三男編『自然科学概論』(勁草書房)は,仕事の関係で必要になり手に入れた。必要なところしか読んでいないものの,それでも印象的な箇所があちこちにある。

第3巻の「おわりに」は全文引用したくなる密度。(ここで言う「特権」は,「私権及び身分をあらわすものであり,差別の論理」であって,近年一部で用いられている恣意的な意味での“特権”を指すものではない)

反語のようだけれど,「公共」と「自由」が置き換え可能のように感じる。

よく日本で,公共の福祉のためには,基本的人権も制限されても止むをえない,というような政治家の議論をみることがある。しかし,これはまことに誤った考えかたである。公共の福祉というものは,人権のために存在するのであり,人権を完全に守るためのものである。公共のために制限されるべきものは特権なのである。その意味で日本には公共というものが真に確立されたとは言いがたい。公共ということが日本でいわれる場合,必らずそれは,特権の代表としての国家権力というものになってしまう。つまり,日本に存在しているのは“お上”であって,公共ではない。これは日本社会を外国の社会とくらべるとき,だれでもまず最初に気がつくことである。すなわち,警察とかその他の政府機関というものが,外国のサービス的なありかたとまるで違って,権力的であるのはそのためである。
 
それと同時に人民もまた,真の意味の公共という観念をもっていない。いな,公共は存在しないのだから,それも当然である。公共のない国家権力は,人民の利益に対立するものであった。これが“奉公袋”という言葉の奉公である。このような公に対して,人民はただちに対立した構えをおこさざるをえないのである。それは国家権力が,つねに人民を制限し無視するためである。戦後日本の社会制度には部分的に民主主義が導入されたといっても,まだ公共が確立されていない。今日の為政者は,公共を国家権力におきかえるし,人民の側も,公共を下からつくりだすことに成功したとは言えない。
 
(中略)
 
外国の産業革命は,労働者の非人間的な悲惨を生んだ。それと同時に,労働階級の団結がはじまり,その反撃によって,はじめて科学・技術と人間性が確立する段階へと,時代は進んだのである。そして,労働者階級が人間的な要求,すなわち基本的人権の確立のために,団結をたたかってきたということが,同時に技術の発展の源泉となってきたのである。
 
日本においては,そのような団結が微々たるものにとどまっていたので,科学・技術の本格的な発展を示さなかった。生産は労働の犠牲のうえに発展した。技術の発展によって生産が発展するというよりも,労働の搾取によって生産の発展がもたらされるという傾向がきわめて強かった。こうしたやりかたは,科学・技術の発展を阻害するものである。

廃市

仕事は続く。20時に本郷三丁目の改札でプリントアウト原稿の受け渡し。こんな時間なのでそのまま帰る。久しぶりに高田馬場の大地のうどんに入ったところ,大盛況。カウンターでビールを飲みながらゴボ天うどんを待つ。「廃市」を読みながら,少しずつ物語を思い出してきた。食べ終わって,裏道を通り家まで歩いて帰る。

午後に那智君からメールが入った。ポール・マッカートニーの東京ドームコンサートに当日券で入ろうとしたところ,小一時間並んだあたりで,噂のポールからのプレゼントに見事つかまり,無料でS席に入ってコンサートを見ることができたのだとか。メンインブラック経由のSNS界隈の都市伝説かと思ったら本当にあったのだ,「ポールからのプレゼント」。

「廃市」は,タイトルそのもの,町が潰えていく様子と,家が潰えていく様子が重なる。当然,観察するのは外部の視線だ。

学生時代につけていた日記に,父方の義理の姉(無茶苦茶込み入った関係だが)の実家が何代も続く旧家で,父とともにその家を訪れたときのことを書いた記憶がある。あのとき,覚えていないけれど,たぶん「廃市」のイメージがまだ根強く残っていのだろう。

その列島で一番賑わいのある町の中心に,その旧家はあった。訪れたのは南の町にめずらしく雪が積もった1月のことだ。門を抜けると,正面に大きな倉が見え,左に長く横たわる平屋があった。全体は黒く塗られている。雪は溶けずに屋根や門に降り積もる。

その大きな家に,今住んでいるのは女性ばかり3人。父の義理の姉とその娘,それにお手伝いとして雇われたものの歳とともに体調を崩した身寄りのない女性だ。地域の庄屋として栄えたその家は代々女系家族で,父の兄を婿に迎えてその代は継いだものの,子どもは一人娘だけだった。その頃,30歳を過ぎ,保母をしながら親と女性の面倒をみる彼女と会ったのは初めてだと思う。

挨拶をし,亡くなった父の兄のお参りを済ませた。本当に静かな家だった。降る雪が積もる音以外,何も聞こえなかった。父がおばさんと話す様子を手持無沙汰に眺めながら,時間をやり過ごす。まじまじと見たわけでないものの,一人娘は結婚をせずにいるのが不自然なくらい美しかった。私が人をそんなふうに見ることしかできない頃のことだった。

帰りに彼女からみかんをもらった。

なんとはなしに「静かな家だったね」と言うと,「大変だな,あの様子じゃ」と父は小さく呟いた。おばさんは夫,つまり父の兄を早くに亡くし,ひとりで家を支えてきた。往時は幾人もの人を雇い賑やかだった家は,衰退し,残っているのは,身寄りのないあの老婆だけだ。老後は自分が世話をすると決め,二人で面倒をみているのだという。

一人娘に見合いの話はいくつも来たものの,家の様子を知ると,誰もが次の一歩を踏み出すことはなかった。

関東で学生暮らしをする私には,それらすべては身近に感じることができないことばかりだった。内部の視線をもつことはできそうにないな。そのときたぶん初めて,そう感じた。そして,その感じはあながち間違いでなかったようで,以来,決して短くはない時間を「傍観者の居心地のよさ」のなかで過ごした。

父が学生の頃,この家から仕送りを受けて,学校を卒業したと聞いたのは,もう少し後になってからのことだ。

廃市

会社に行く前に床屋に入る。連休が始まっているのか,日曜日だというのに,あまり混んでいなかった。座談会の原稿を整理するが,あまりの分量に集中力が続かない。プリントアウトを抱えて17時過ぎに出た。目白の隠れプロントでビールを飲みながら20時くらいまで格闘。山手通りまで歩き,角にオープンしていたインド・タイ料理店に入る。マトンのビリヤニとビール。美味かった。家に帰り,福永武彦の『廃市』を読み始めた。

表題作「廃市」のページを捲りながら思い出したのは,昔,衰退していく町=廃市をよく引用していたことだ。昭和50年代後半から60年代にかけての宇都宮だったり,越谷を指して,廃市のようだ,というように。

福永武彦の小説はほとんど読んだにもかかわらず,内容はすっかり覚えていない。『死の島』だったろうか,心理的な視点を主語にした書かれ方が新鮮だったことくらい。古本屋でときどき目にするものの,読み返してみようとまでは思わなかった。

このところ20歳前後に関心があったこと/ものを,再び読みなおしたり,観なおしたり,聴きなおしたりばかり。

そうやって思い出すのは,昔は「何を聴いているか」と同じくらいに「何を聴いていないか」が重要だったことだ。同時代のバンドでも,聴いているバンドより、聴いていないことを誇りに感じるバンドのほうが圧倒的に多かった。いかにして,そのバンドの曲を聞かないかに心血注いでいたわけだ。

ところが,同時代に似たようなバンドを聴いて過ごしたと思しき人の動向をSNS経由で知るにつけ,このバンドを聴いて,そのバンド聴くっておかしいじゃんか,と感じることが少なくない。平沢進が当時,ニューウェイヴ(洋楽だったかな)を聴く人は歌謡曲は聴かないというような不文律があったはずが,まわりにも歌謡曲を聴くような人間が出てきた,ことに違和感を示していた。

たとえば,じゃがたらというバンドは,渋谷陽一のサウンドストリートでめずらしいことにスタジオライブがあり,その音がスカスカで,あまり琴線に触れるものではなかった。それよりも何も,踊れないことに心底情熱を注いでいた当時,ファンクのリズムは到底受け入れられるものではなかった。 という感覚は普通だと思っていたんだけれど,もっと心が広かったのかな。当時のロック好きは。

私のまわりは,あのバンドやマンガ,映画が好きというと,有無を言わさず却下される/することが普通だったんだが。

夜と霧の隅で

連休中はちょうどよいので,たまった仕事を片づけよう。

午前中から会社に行く。待っていた原稿はきておらず,もう一本の入稿を準備する。夕方からtotoruに移り,報告書を読み始めた。夕飯は別の店でとろうと思っていたものの,急に雨が強くなったため食べて帰ることにする。ブックオフによって3冊購入。

 「夜と霧の隅で」は、私の諸作の中では変っていると言われている。…
 遺伝性精神病者の断種、或いは不治と見なされる精神病者の抹殺は、第二次大戦中に実際に行なわれたことで、ただその記録はごく少ない。オスワルド・ブムケの回想記、インゲ・ショルの有名な「白バラは散らず」、モスタールというジャーナリストの書いた「見捨てられ、見失われ、呪われ」という本などに出てくるが、ユダヤ人抹殺の本が多数ある中で、本当に少ないと言ってよい。ドイツ人の医師に訊くと、その事実を頭から否定する者もいる。おそらく戦時中、秘密裡に行なわれ、一般にはなかなか知られなかったものであろう。ガス室に送り込まれた多数のユダヤ人に比べるてその数も少なく、戦後ジャーナリズムが殊さらに書きたてることもなかった。それだけに、私としてはぜひとも書いておきたいと思った題材である。
北杜夫『見知らぬ国へ』(新潮文庫)

初出は『北杜夫全集』の月報で,この全集は中学校に入学したとき,記念に何冊か買ってもらった記憶がある。その頃,講談社から出ていた『江戸川乱歩全集』とともに新星堂の上にあった書店で見つけた。

どちらもすべて手に入れたわけでなく,読んだことのない作品が収載されている巻を買って,その他は手つかずだった。『江戸川乱歩全集』で初めて横尾忠則を知ったように思う。

その後,アルバイトをして小遣いに余裕があったとき,夢野久作全集をまとめて買ったのが全集を揃えた経験の始まりだ。高校2年のときだったはず。

ということはさておき,「夜と霧の隅で」の創作過程について,北杜夫に誰かきちんと尋ねて記録に残した人はいないのだろうか。

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