S60

と書きながら,平成が始まってから数年の出来事について,時系列にまったく把握していないことに気づく。とりあえずの備忘録。

  • プレ平成~平成元年:免許をとって初めて買った車がファミリアという徹,伸浩のレヴィンなどで,週末にあちこちを回る。麻雀三昧。徹,昌己,伸浩と4人で泊りで高山に出かけ,私たち以外すべてカップルという体験はじめ,無茶苦茶居づらい場に身をおくことしばしば。
  • 1990(平成2)年秋:私の職場は新宿に変わった。同じ頃,弟がミラノに旅立ち,空いた新井薬師のアパートから会社に通うようになった。P-MODELは凍結し,平沢ソロは今一つという状況で,新宿・渋谷のライブハウスを離れ,高円寺や吉祥寺のライブハウスに通いはじめる。
  • 1991(平成3)年:スタジオに入り始めた。徹が武蔵小金井は引っ越す。昌己は実家立て替えの間,高円寺に移る。麻雀,ドライブが減り,伸浩と会うのは飲むときぐらいになった。ギター,ドラムマシン,MTRで曲づくり。本業は編集者だけれど,時間はそれなりに確保できた。
  • 1992(平成4)年:徹と会う機会が減り,週末は昌己と二人でスタジオに入ることが多くなった。中古のKORG T3を秋葉原から新井薬師まで抱えてくる。打ち込み同期ものに嵌る。
  • 1993(平成5)年:正月に高知でライブ。帰ると留守電に高橋さんの訃報が入っていた。バスルームシンガー用に曲のデータをまとめはじめた。スタジオに入る回数が減り,この年の秋にはアパートを引き払い,自宅に戻る。翌年の結婚を控え,資金を貯めるためだった。

岡崎京子の「東京ガールズブラボー」が連載されていたのは1990年後半から2年間だという。こうやってまとめてみると,見事に80年代にケリをつけたあのマンガと並行して,幻の昭和60年代後半がそれなりにあって,自分たちでそれを収束させていたようみえて面白い。

数多のグラフィティにならって記述すると,昌己とはその後も,多いときは月数回,少なくても何か月かに一度は飲んだり食べたりする関係が続いている。伸浩とは10年くらい会うことのない時期があったものの,数年前からときどき飲むようになった。和之とはSNSでときどきやりとりしながら,同じように年数回飲んでいる。喬史と裕一も,40歳を折り返した頃から,会う回数が増えた。当初は昔ばなしに終始してしまい,なんらからしくないなと感じたものの,その後は学生の頃のように,まったくばかばかしい話が出るようになった。会わないのは徹だ。10年ほど前,昌己の結婚祝いをタイ料理屋で開いたとき以来,連絡がとれない。

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徹が武蔵小金井に引っ越したとき,何か手伝いをした記憶はない。ただ,昌己と伸浩,和之で早々に新しいアパートに出かけたときのことを覚えている。

その日,私はなぜかラインベルト・デ・レーウらのカルテットによるCD,メシアン「世の終わりのための四重奏」を持って行った。徹の部屋のロフトで聴く四重奏は妙に似合っていた。相変わらず,部屋には腰より高い家具を何も置いていなかった。

徹がQY10を手に入れたのはその頃のことだったと思う。新井薬師のスタジオにもQY10が登場した。ただし,同期をとるには中途半端で,数回,QY10とセッションのようなことをした後,展望――つまり面白さが薄れてしまった。徹に彼女ができて,スタジオに顔を見せなくなるのは,ほとんど同じ時期だ。いまだにQY10の字面を見ると徹が彼女を連れてきたときを思い出す。そのことは10年以上前,どこかに書いたはずだ。

その少し前。和之が結婚することになり,披露宴の出し物をどうしようか相談するために徹の部屋に集まった。結局,ポール・モーリアの曲を打ち込み,それにそれぞれ勝手な歌詞をつけて歌おうという話に落ち着いた。どうしてそこに落ち着いたのか話し合いの経緯はまったく覚えていないが,今でも,だれかの披露宴で出し物をという話になったとしたら,同じ選択をするかもしれない。

ポール・モーリアの楽譜をきちんと買ってきて4曲を選ぶ。私は「オリーブの首飾り」に決めた。アレンジはそれぞれ勝手にして,各人つくった歌詞にも口出しはしない。それだけがルールだ。土曜の午後から始めて,結局明け方までかかったような気がする。その程度の労力で出し物をつくってしまったといえば身も蓋もない。(このあたり

皆,社会人になっていたので,夕飯は宅配ピザをとることができるような懐具合になっていた。にもかかわらず,その頃,徹がぺヤングの美味い食べ方を発明したと自慢げに語った。この話も以前書いた(微妙にニュアンスが違うけれど,このあたり)。近所のコンビニに出かけ,創刊されたばかりの「ミスターマガジン」で望月峯太郎の「お茶の間」を,「CUTiE」で岡崎京子の「東京ガールズブラボー」を立ち読みし,帰りにぺヤングと酒を買って帰る。それが1991年の週末の過ごし方だった。(続きます)

連休

今年の連休はほとんど会社に顔を出したものの,数年前の思い出したくもない連休に比べると,かなりゆっくりと仕事をすすめることができた。

このところ頭を悩ませていた「間隙」のありかについて,結局,思いついたのは矢作俊彦の文章だ。

法律など守るひまがあったら,マナーを守れ。そっちのほうが比べようもなく大切だ。万人がマナーを守ったら法律など必要ない。
スズキさんの休息と遍歴―またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行,p.61

ぼくはそこまで言っている。人が殺したい,戦争もしてみたい,だけどそのことでどれほどのリスクを負うか知っている。プラス・マイナスで大損するから我慢している。我慢しているから,ここでこうして暮らしている。あたりまえのことじゃないか。
複雑な彼女と単純な場所,p.37-38.

ベトナム

校正と座談会の原稿整理で時間が過ぎる。18時くらいに会社を出た。丸ノ内線新大塚駅で降りて大塚のほうまで歩く。新大塚駅前の書店がいつの間にかセブンイレブンに変わっていた。給料未払いでニュースになったカレー店も別の店だ。夕飯をどうするか考え,久しぶりにミャンマー居酒屋に入ってみようと思う。

綺麗になったと思ったら,ここもいつの間にかベトナム料理店に変わっていた。バインミーフォンという店名だから高田馬場のバインミーの系列かと思ったら,バインミーってコッペパンに具を挟んだサンドウィッチのことのようだ。

テーブル席は混んでいるのでカウンターに座る。左端に文庫本を読むおじさんがいた。オーダーを撮りにきた男性は最初から困ったような表情を浮かべる。そこにおじさんの加勢が入る。「女主人が買い物に行っていて,ほとんどできるものがないんだって。酒はベトナムのネプモイのロック,つまみはこれだけ」といって,焼いたソーセージを指さす。

選択肢がそれしかないのだから,同じものを頼む。なんとはなしにそのおじさんと話をしながら酒を飲むことになった。

67歳の設計技師だというおじさんは,30年ほど前,仕事でタイに行って依頼,東南アジアの料理が好きになったのだそうだ。スペインの社員旅行の話に寄り道しながら,建築の話をするので,聞き役に徹した。

4人連れがやってきたタイミングで,それまでカウンターの両端に腰掛けていたのだけれど,席を詰めざるを得なくなった。ネプモイも無くなってしまい,日本酒を飲みながら,あれこれ話す。夕飯を食べにきたはずが,結局,焼いたソーセージをつまみに2時間くらい話していた。

そこに女主人が帰ってきた。といってもまだ20歳代にしかみえない。料理ができるかと思ったら,結局,きゅうり1本だけはあるというので,それを切ってもらうことにした。

客は私とおじさんだけになったあたりから,Youtubeをカラオケ代わりに使って,歌が始まった。おじさんは陽水・拓郎世代だそうで,そのあたりを歌いはじめた。私は「ユエの流れ」「青年は荒野をめざす」「イムジン河」。酔っぱらっていたのは承知の上,なんであんな曲を入れてしまったのだろう。

店を出たのは23時。結局4時間,ほとんど何も食べずに酒を飲みながらおじさんと話していたことになる。当然,かなり酔いがまわってしまった。

間隙

開店1分前にブックオフへ行ったところ,10人ほどの開店待ちの列を見た。居心地の悪さを強烈に感じたものの,あと1分のがまんだと堪え,列に加わる。先日見たときに1,200円ほどに値が下がっていた『止まることなく』(ポール・ボウルズ)が20%オフだと1,000円を切る。ならば買っておこうと思ったのだ。本を無事入手して,会社に向かった。

昼まで仕事をして,与野本町に向かう。一昨年から毎年,知り合いの編集者に誘われているイベント「憲法フォークジャンボリー in 彩の国2017」に今年も出かけた。

与野本町に降りたのは初めて。与野の方に向かい,大きな国道沿いのファミレスようなところで昼食をとった。

さいたま市産業文化センターホールは大きすぎず,音もきれいに聴こえるホールだ。PA担当の人が,かなり神経をつかってバランスをとっているのが印象的だった。コンサートは午前中からはじまっていて,席の埋まり具合は6割くらい。回を重ねるごとに,音楽自体の聴きごたえは増してくる。

知り合いの編集者の演奏を聴き,しばらくしてから外に出た。

近くにある古本市場で,林京子『祭りの場』(講談社文庫),早川義夫『たましいの場所』(ちくま文庫)をそれぞれ80円+税で購入。駅前の居酒屋でウーロンハイとウドの酢味噌和え(計500円)をやりながら,『たましいの場所』を読み始めた。晶文社の島崎さんが編集した本だったのか。

ジャックスというと,1980年前後,甲斐よしひろが自分の番組でかなり強引に曲をかけていた印象があって,あえて聴かないでいた時期が数年ある。1970年代後半は木田高介がヒューマンズーの実質,バンマスであったり,フォークルのライブLPで加藤和彦が「遠い海に旅に出た私の恋人」や「時計をとめて」をカバーするどころか,1st ソロアルバムのバックはジャックスのメンバーが演奏していることを知ったりで,それなりに聴いてはいたのだけれど。

『たましいの場所』を読み,早川義夫は肌にあわないな,と思った。

「憲法フォークジャンボリー in 彩の国2017」は,昨年以上にいろいろ考えながら会場にいた。それはある表現者(演奏する人たちのこと)が「インターナショナル」を歌ったときのことだ。フロアからオゥという歓声とともに数人が立ち上がる。腰にあてた手で4拍子のリズムをとりながら一緒に歌う。そのときに感じたいたたまれなさは,その前後に感じた居心地の悪さと,少し質の違うものだった。

意見の違うもの同士が同じ場所にいて,オセロゲームのように,すべてがこちら側/あちら側に変わらないと折り合いがつけられないような主張のしかたに,このところ考え込んでしまうことしばしばだった。

それは51対49で優勢になり,ものごとをすすめていくときの間隙のつくりかたのようなもので,51が100になるのではないはずなんだけれど,と考え込む。49の居場所,違う考えを51はどう位置づけられるのか。一度,49になったら最後,これまでのあれやこれやまで否定されてしまうかのような言説は,それがたとえまっとうな意見であったとしても肯首しかねる。

話はそれ以前だということなのだろうけれど,その間隙の狭さ加減が,結局,51を得る壁になっているのではないか,と。

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