気圧

風邪から回復しつつあるものの,気圧の変化に対応できない。少し遅れて出社。対談原稿の続き。少しずつ削っていくことにした。20時過ぎに退社。

1970年代後半に書かれた五木寛之のエッセイ集を捲っていると,低気圧と偏頭痛の関係について触れたくだりがあった。うつ症状との関連はじめ,気圧が人に及ぼす影響はばかにできない。

新大久保の事務所に通っていた頃,同僚だった葦野さんは,当時30代半ばの塾講師崩れで推理小説家志望だった。バスルームシンガーは「ブライアン・ジョーンズのような髪型」と表現していたものの,10人中9人が感じていたのは彼が「武田鉄矢にそっくり」だということだ。西村京太郎の小説はばかにしていたけれど,「内田康夫の小説も同じようなものなのでしょう?」と返すと少し機嫌が悪くなった。ファンだったのだろう。彼が書いた原稿を読んだことは一度もない。昼食に出たときに,あらすじともいえない小説の雰囲気だけを伝えられたことが何度かある。トリックは天体の摂理で,登場人物に謎の未亡人がいたことは覚えている。葦野さんから「謎の未亡人」と言われた途端,小説にはならないだろうなと感じた。「謎の未亡人」なんてマンガじゃあるまいし。

天体の摂理がトリックになるのならば(乱歩の「火縄銃」のようなトリックではなく),低気圧だってトリックになるのではないかと思う。

葦野さんがチェックしたゲラが手元に届いたとき,やけに大きくホワイトで消してある一枚が目についた。裏返してみると,焦げて孔があいている。煙草の灰をゲラに落とし焦がしてしまった後をホワイトで消したようだった。チェックを終え,次の編集者に渡したところ,しばらくして笑い声が聞こえてきた。

本人は繊細なのだけれど,その手の繊細さは結局,まわりにはガサツさとして伝わってしまう。本人にとっても,まわりの人間にとってもやっかいな性格の持ち主に会うことがときどきある。

葦野さんはしばらくして会社を辞め,塾業界に戻っていった。10年ほど前,当時の社長に連絡があり,職探しをしていると聞いたのが最後だ。20歳くらい若い中国系の女性と所帯をもっていたようで,会って話を聞いてみたいなと,ほんの少しだけ思った。

大久保

午後からJR大久保駅北口で待ち合わせして,ルノアールで打ち合わせ。15時半くらいに終わり会社に戻る。家内が食事をとってくるというので娘と高田馬場で夕飯。帰りにブックオフで文庫本3冊,単行本1冊購入して帰る。あいかわらずだるさが続くため,早めに休む。

平成のはじめの数年間,新大久保の職場に通った。建てたのだか購入したのだか知らないものの,グループ会社が自社ビルを所有し,そのワンフロアに移ったのだ。

その頃,私は新井薬師に住んでいた。当初は西武新宿駅で降り,職安通りを渡り,旅館街に並ぶ道へと入り,新宿寄りの高架下を越えて通った。物珍しかったのは半月ほどで,そのうちに週の半分くらいは自転車で通勤するようになった。新井薬師から東の地形をほとんど把握していなかったので,早稲田通りを東中野銀座商店街で右に折れ,山手通りから大久保通りに入った。毎日,自転車通勤しなかったのは,帰りに微妙な上り坂が続くためだ。だいたい東中野銀座通りの古本屋で一度,休憩してから帰った。

まだ,新宿ペペには8階に書店,7階にマンガ専門店と画材屋,6階には楽器店とレコファン,すべてが揃っていた頃なので,西武新宿駅から帰ることはまったく苦にならなかったのだ。第一,新大久保界隈は楽器店が充実していて,TASCOMの4トラックミキサーは当時,会社帰りに新大久保で調達した記憶がある。町に集まる人種にさえ目をつぶれば,実はとても過ごしやすい。

食事をとるにもエスニックから郷土料理,本格的なイタリアン,ファミレス,居酒屋,山手線を越えれば当時から韓国料理店が賑わっていた。昔からある喫茶店に本屋,古本屋。思えば,当時,町中でほとんど用が足りてしまった。

その頃,矢作俊彦は連作「東京カウボーイ」の一編で,新大久保から社会保険中央病院に向かう通りを経て高田馬場の手前あたりで仕事をする中華系殺し屋たちの話を仕立てた。小説としては,にもかかわらず,実に地味なつくりで,そのミニマルな雰囲気が,昭和の終わりから平成の初めのあのあたりにとてもふさわしく感じた。

今でも年に数回,仕事で大久保界隈を歩く。行くたびに様代わりしたという表現を耳にするが,平成の初めから,概ねこんな様子だったように思う。

望月三起也が「ロゼ・サンク」を描いたのは2000年前だった記憶があるが,先の高架下の様子など,私が通っていた頃そのままという感じだった。今日も20数年,大久保へと通う団塊の世代の友人から「外国人の趨勢が変わるだけですよ」と慣れたふうにあしらあわれた。

ここのところ,風向きはヴェトナム系,タイ系外国人に靡いているようだ。とはいえ,新大久保駅から少し北に入ったあたりのイスラム系アジア人コミューンは安泰のようだし,うまく棲み分けられているに違いない。私が通っていた頃はタイ料理店はまばらで,陽が落ちるとともに中南米からの商売女性が現れた。勢いがあったのは韓国系や中国系だった。

今となっては他の町と同じく,新刊書店は全滅(山手線の東側,風月堂の向かいあたりにあった店は続いているのだろうか),古書店もなくなった。喫茶店は何軒かが続いていて,大久保駅を新宿方面に歩くと,すれ違いざまに撃たれそうなロケーションだけれど,新しい喫茶店までできていた。

大久保界隈を散策してみたくなってきた。

風邪の症状は少しずつおさまる。ただ,続くだるさは風邪によるものか,くすりの副作用かどうか,やはりわからない。

土曜日は,夕方から家内と外出。台所用の棚を買うというのでカートを引っ張っていった。駅前の喫茶店で遅めの昼食をとる。新井薬師経由で早稲田通り角の家具屋に入る。使い勝手のよいものが見つかった。カートに載せて持って帰ろうとするが,送料無料で届けてくれるという。用をなさなくなったカートを引っ張って,ブックオフと古本案内処を覗く。中野ブロードウェイの2階の古本屋に吉村作治の『How to 大冒険』が出ていたので購入。子どもの頃,手に入れたものは何回か前のみちくさ市で売ってしまい手元に残っていない。読み終えたらまた売ればよい。こうやって手に入れた本が軒並み,元々もっていた本より状態がよいのはどういうわけだろう。娘と待ち合わせ,昔,よくランチを食べに入ったビストロらんぐさむで夕飯を食べて帰る。

日曜日は,昼過ぎから事務所で少しだけ仕事。山手線で秋葉原まで出て,数年ぶりでバーガーキングで昼食。ブックオフで唐沢俊一『新・UFO入門』(幻冬舎新書)。CBAについて,それなりにまとまっている。「地球ロマン」を読んだほうが,ぜんぜん面白いけれど。中野まで行き,元・大予言だった店で,昭和60年代の「スタジオ・ボイス」5冊,五木寛之『深夜草紙 Part 2』。高円寺で家内,娘と待ち合わせて夕飯をとる。一度入ったことがある2階のイタリアン。おいしかった。東中野経由で帰る。

日常的に酒を飲むようになったのは30歳前のころからで,ただ当時はビールを飲むよりジントニックを飲む回数のほうが多かった。毎日のように晩酌でビールを飲むようになったのは40歳を過ぎてからだと思う。50歳を過ぎてからは,家に着く前に一杯飲んで帰る日が増えた。

昔から酒を飲んで気分が暗くなることはなかった。酩酊感が愉しいのか,眠くなるので手ごろだからか,酒を飲むことが習慣になっていった理由はよくわからない。これで居心地のよい酒場に出会ったら,かなり酒の量が増えてしまいそうな気もするが,いい塩梅の店はそんなに多くない。平日は家に着く前に一杯,夕飯を取りながら一杯,せいぜいそのくらいの量で済んでしまうのだろう。

旅先での酒は,また別の話。

夜中に汗をかいた。風邪が治りつつある兆しだ。若い頃はそのまま,嘘のように体調が戻ったのだけれど,歳をとってからはここからもうワンクッション挟んで回復に至る。

とりあえずシャワーを浴びた。身支度をしているうちにだるさがぶり返してきた。しかたないので小一時間横になる。1時間ほど遅れて出社した。何本かメールを打ち,原稿整理で夕方まで終わる。

かぜ薬のせいか,非道く眠い。風邪の症状のつらさと,薬の副作用のつらさ,どちらを選べば結局楽なのだろうかと,ときどき思う。

20歳を過ぎてなお,抗生物質を服用すると薬疹に悩まされた。左右どちらかの瞼が腫れ,かゆみをともなう膨らみがからだに現れる。医師から「長く使われており副作用はほとんどない」と説明を受けた薬でも薬疹は出てきた。疲れがたまると似たような症状が起きたので,一概にくすりを服用したためとは言い切れないものの,くすりが体内のトリガーをその都度弾いていたに違いない。

それがどうにか治まったのは30歳近くになってからだった。

40歳代後半に花粉症が始まってから,くすりの副作用に悩まされるようになった。風邪のときに処方されるくすりまで,服用すると眠気が起きるようになった。それまではかぜ薬を飲んで眠くなることなんてまったくなかったにもかかわらず。

最近,くすりの副作用を抜くために休みをとっているような気持ちになる。

休日

週明けからの風邪が非道くなり,午前中休んで様子をみるが回復しない。結局,午後も休むことにした。薬のせいなのか,一日うつらうつらしていて,本のページを眺めてもほとんど理解できない。

鈴木道彦越境の時 一九六〇年代と在日』(集英社新書)をどうにか読み終えた。本田靖春の『私戦』を読んだときとは事件の印象が少し違う。小松川事件と金嬉老事件を通して,在日韓国人差別を「する側」の視点を絶えず抱えたまま,ともに歩む可能性を探る刺激的な内容だ。何度か読み返さなければ,身の丈で理解できないと思う。これだけの内容の本が新書で刊行されるのだから読まないのはもったいない。

“共謀法案”が可決された日,『越境の時』に残された記録と大きく異なるのは,じかに集まって学び,討議し合う場のなさだろう。容易く手放してしまったはなぜなんだろう。

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