風邪

落ち着かない天気。朝から喉が痛い。市販のかぜ薬を流し込んで仕事に。一日調子が悪く,早めに上がることにした。家内がコンサートに出かけているため,高田馬場で待ち合わせて娘と夕飯。少し前まで「もぐら食堂」だったところに新しい店ができていたので入ってみた。カジュアルイタリアンと銘打っているのに相応しいリーズナブルな価格設定で,頼んだなかでは魚が特においしかった。足が速い魚だと,そこそこの店でもナマ臭さが出てしまうのに,そんな匂いはまったくしない。このところのアニサキス中毒報道で家内は生魚を避けているものの,娘と二人なので気にせずに頼んでよかった。しかし体調はだんだん落ちてゆく。デザートまで一通り食べて,家に帰り,すぐに眠った。起きたのは0時過ぎ。したくをして,1時半くらいに再び眠った。

日曜日までは喉が痛くなる気配などまったくなかったにもかかわらず,起きた途端に非道い痛さ。市販薬は眠くなるし,夕方の会議まで仕事が進まなかった。

金曜,土曜と酒の席が続きそうなので,それまでには回復しないとやっかいだ。

夕飯をとりながら,娘から大学の同級生の話を聞いていた。教職に必要な単位をとり,サークル活動に出かけ,2つのアルバイトを掛け持ちする。とにかく忙しい同級生は自宅から通っているにもかかわらず,昼食代は自分で出すという。お金に事欠き,風邪をひいても病院に行く余裕がなく,昼食はスナック菓子。私は「友だちの家に行って,一緒に食事したりできないのかな」,そう感じた。

喬史は夕飯はタバコ3本などというときもあったし,私にしても徹にしても,精神科のアルバイトをするようになってから仕送りに頼らず,大学生活を続けることができたものの,全体,相応に貧しかった。しかし,不思議と生活に対して何がしかの逞しさを伴っていたように思う。

私が留守にもかかわらず,カギをかけていないことをいいことに,部屋に上がり込み,冷蔵庫のなかから食べ物を物色し,レコードを聴いて帰っていった喬史。もちろん怒りはしたものの,隣に住む先輩から,「ミカバンドに合わせて歌う声が聴こえましたよ」と言われ,怒りは,ああ面白いネタをもらっちゃったぜ,という感じにとってかわる。

同様に,後輩が留守の間に私たちはそ奴のアパートに入り込み麻雀三昧。そのあげく,アルバイト先のラーメン屋から出前をとり,後輩は「自分のアパートに出前をした男」として名をはせた。

イリーガルなことも少しはしたけれど,安いだけが取り柄の店で昼食をとり,食事を奢ってもらえるというだけでサークルに入ったり,工夫ともいえないことを何度も繰り返した。

「経済」「貧困」に手を打たなくてよいなどというつもりはまったくない。ただ,「助けてくれ」と言える友人をつくってもいいのではないかとは思うのだ。

基本

「ホームページのつくりかた」とか「WordPressの基本」などという本が嫌いではない。新古書店や書店のコンピュータ関連書籍の棚をときどき眺め,年に一,二冊くらいは買ってみる。ただ,自分のやりたいことが十分に書かれた本はほとんどないので,読んだそばからセキュリティやプラグインなどをチェックするくらいに使うだけで,本筋にはあまり関係ないことしばしばだ。

ここ1か月で,HTML/CSSとWordPressについての本をそれぞれ1冊買った。最近の本は,B5変型判,カバー付きカラー,2,500円前後という仕様は変わらないものの,文章量が多いもの,文章中心で読むものが増えた。一時,流行った箇条書きスタイルの本は今も新刊が出ているけれど,文章のほうが結果,わかりやすいということなんだろう。

週末,外に出たときはリュックサックにWordPressについて書かれた本を押し込み,吉祥寺の井の頭公園に続く道で家内が買い物している間などにページを捲っていた。

要は全体を意識しながら個別を理解するには,情報がいくら重複していようが,箇条書きよりも,文章のほうがふさわしいのだろう。そしてまた,そうやって書かれた本は,読めてしまうから不思議だ。

Webで検索すれば,必要な情報はある程度得られるにもかかわらず,本を買って読むのは,記憶に対する欲求ゆえではないかと思う。そしてまた,その欲求は,あるときから,本を読むことの大きな目的になった気がする。

矢作俊彦が書く文章をすべて記憶したいという欲求は20代からあった。ところが,40歳を過ぎ,忘れることが多くなると,あれもこれも記憶に留めておきたいという欲求が強くなった。いきおい同じ本を2度3度読むようになる。そうやってようやくアウトラインくらいは記憶に残る。そうしたとき,箇条書きは繰り返し読めないのだ。何せ,つまらないもの,箇条書きだから。

とりあえず,ルナールの『博物誌』は,ここでいう箇条書きではないとしておかないと,話がまとまらないが。

更新

土曜日は昼過ぎまで家で片付けをしていて,16時くらいになってから家内,娘と近所のカフェでかなり遅い昼食をとる。伊野尾書店で本村凌二/マイク・モラスキー『「穴場」の喪失』(祥伝社新書)を買って帰る。サイトの昔のデータの更新。

今朝は昼過ぎに家内と外出。新井薬師で昼食をとり,中野から吉祥寺に向かう。井の頭公園アートマーケッツを覗く。久しぶりに公園まで出たが,いくらあたりが小奇麗になったからといっても,集まっている人のキャラクターは変わらないなとつくづく思う。自作漫画の絶叫朗読を遠目に見ながら懐かしくなってしまった。

動物園のほうの喫茶店で休み,とりあえず,古本屋とCD店をチェック。踊ってばかりのCDを探しに来たのだけれど,街場だからといって,もはやCDを探せる状況じゃないことに愕然とした。

友だちと遊んできた娘も合流して,長崎のうどん屋で夕飯をとって帰る。

週末に2010年までの日記のデータを更新した。CSSを使ったりしないつくりだったので,ひと月分のデータを修正しながら,削除したり,加えたり,とにかく面倒だった。データの書き出しのときにフォーマットを変更できたのだけれど,そんなことをせずに10年近く抱え込んでいたため,今になって修正するとなると本当に面倒なことになる。

2011年から10数か月分のデータはCSSで加工されているので,そこに手を加えればよいはずで,こんな面倒なことにはならないはずなんだけれど。

あとはタイトルで索引をつくりたいのだが,いつになったら手を付けられるかわからない。

踊ってばかりの国

昨日の強行がたたったのか,からだが重い。午後に四谷で打ち合わせ一件。茗荷谷から四谷,夜に新宿サブナードに行けば,洋食屋「バンビ」がある町ばかりだ。そんなことを思いながら会社に戻る。疲れていたので早めにあがり,池袋で少し休んで家に戻る。1時間少し眠り,夕飯をとった。

5月末のライブで観て依頼,踊ってばかりの国の曲をチェックしている。80年代のライブハウスに戻ったかのような強烈な存在感のボーカリスト。にもかかわらず,当時のバンドは踊ってばかりの国のようにクオリティの高い曲をつくることはできなかった。今の若いやつは凄いな,とつくづく感心してしまう。

「ほんとごめんね」なんて,曲調はジョイ・ディヴィジョンそのものなんだけれど,パクリ感をまったくなく,オリジナルに消化されている。先日のライブで演奏されたものの,そのときはボーカルの存在感に圧倒されて,曲調を何かにつなげて聴く余裕などなかった。

通夜

幕張メッセでの取材を終え,バスでJR幕張駅に向かう。南口の居酒屋で遅めの昼食。幕張の居酒屋では昼間から当然のように氣志團がかかっている。それにしても,海鮮丼の酢飯が温かいままなのはどうしたものだろう。たまにテレビでレポーターが寿司を食べて,「ほかほかで美味しい」などとぬかすが,いつから酢飯がほかほかで食されるようになったのだろう。1年振りに草古堂に行くが,時間がないのでざっと見ただけ。後ろ髪をひかれる思いで寂れたJR幕張駅に。新宿経由で小田急線に乗る。町田の先で18時からお通夜。終わってから駅ビルの大戸屋で4人で食事をとっていると,遅れてもう一人がやってくる。途中で急行に乗り換え,家に着いたのは22時半くらい。

20数年前,月に一回二俣川で行なわれていた検討会の主催者の1人が亡くなられた。訃報から1日しか経っていないお通夜にもかかわらず,県下はもとより遠くからも200名近くが集まった。

ここ10年以上,会っていなかった懐かしい人,人,人。仕事にいい思い出などほとんどないと思っていたにもかかわらず,30代の頃,この方たちからお話をうかがえたこと,問いを投げかけられたことは本当にすばらしい体験だったのだなと感慨一入。亡くなられて先生がこうして皆を呼び集めてくださったことに意味づけは必要あるまい。

人を取除けてなおあとに価値のあるものは,作品を取除けてなおあとに価値のある人間によって作られるような気がする(辻まこと)

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