ぐにゃり東京

雨が降りそうな天気にもかかわらず,降りそうなままで一日が終わる。

19時まで仕事。対談原稿を起こす。Okoshiyasu2を使ってみたところ,無茶苦茶よい。これをもう少し早くダウンロードしておけばよかった。帰りに池袋で少し休み,『ぐにゃり東京』を読み終えた。20時過ぎに家に戻る。無線LANで繋いでいるプリンタがうまく動かない。再設定しなおしたが,どうもウイルスソフトの関係のようだ。

『ぐにゃり東京』は「GRAPHICATION」連載時に途中から読んでいた。しかし,実のところあまり印象に残っていない。池内了はじめ,他に楽しみな連載がいくつかあったためなのか,理由はよくわからないのだけれど。

で,まとまって読んで初めて,こういう連載だったのかと,ようやく認識した。仕事でたまにお世話になるフリーの人に似て,というかそのもので,ものの見方が面白いと思う一方,どうも苦手な雰囲気を感じてしまう。対象論が先だってしまうところなのだろうか。

昌己と飲んでいて,本書の話になったことがある。平井正と間違えていたことを,どこかに書いたかもしれない。「どこかって会っていてもおかしくないくらい,行動範囲が被るんだよな」。水道橋に会社があるのだから,昼飯に入った店に平井玄がいてももちろんおかしくない。

週末

土曜日は昨夜の荷物を抱えて会社に行く。雨。このところ,鞄のなかには買ったままで読み終えていなかった平井玄『ぐにゃり東京』が入っている。帰りに高田馬場で少し飲んでから帰る。芳林堂書店に久しぶりに入ったところ,本の冊数がかなり少なくなっていて,まさかと思う。レイアウトを変えるためのようだけれど,この調子で続くのだろうか。

日曜日は午後から家で少し仕事。サイトのlogファイルのタグを変える作業は,やりかたが確定したので,1月分数十分で終えられるようになった。とはいえ10年分くらいあるのだから,全部終えるのに夏くらいまでかかりそうだ。夕方から吉祥寺に。家内,娘と夕飯。公園口駅近くに移転したSOPRAに入る。夜のメニューは前菜,パスタ,メイン合わせて7種類くらい。メニューにないものも注文すればつくってくれる。もしかしたら,多くのレストランはこのやりかたで十分,店をまわせるのではないかと思った。サラダを頼み,魚中心にデザートまで食べてお腹いっぱい。

帰りにバサラブックスの300円均一箱に中井英夫の『悪夢の骨牌』『人外境通信』,横溝正史『鬼火』,河野典生『カトマンズ・イエティ・ハウス』があったので買ってしまう。300円なんて値付けされたらしょうがない。中井英夫の2冊はページを開いた痕跡さえない美品。箱は経年劣化だけれど。

凍結していたiTunesストアのアカウントを解除したり,SNSに一時,矢野顕子の「いいこ いいこ」をアップするためにあれこれ手をかけたりしていたら夕方になってしまった。まあ,家でそんなことする時間がとれたのは久しぶりだから,それなりに楽しい。

『ぐにゃり東京』を読みながら,数年前のゴールデンウィークの非道い進行を思い出す。フリーの校正者,DTPオペレータの独特の感じ,どこか山っ気があって,まるでクイズを解くかのように仕事を進めようとする感じが伝わる。プロなんだけれど,なぜかあまりプロっぽくないのだ。

HTML

気圧のせいか,午前中は頭痛が非道く休む。昼過ぎから仕事。夕方に飯田橋で著者校正を受け取り,そのまま西馬込まで行く。数年前,執筆いただいた著者のお通夜。初めて西馬込に降り,坂を登ったり降りたりしながらの数分でお寺に着いた。以前の上司と精進落としを呼ばれていると,知り合いの著者がやってきた。3人で帰ることになった。来るときに川崎がおそろしい混雑ぶりだったと著者。西馬込まで歩き,五反田経由で帰ってきた。

数日前のことだというのにきっかけは何だったのだろう。旧サイトのアーカイブデータに手を加え始めた。

そう,昭和60年代後半の記憶を整理していたときだった。やけに行間が詰まっていて読みづらいなと思った。とりあえずcssを加えて行間を調整し始めたところ,書体とか1行の文字数とか,他の箇所のデータも修正したくなってきた。

一月分に小一時間かかる。まだ5か月分を終えただけだ。WordPressに移してしまってもよいのだけれど,何だか当時の感じは残しておきたいので,とりあえずコツコツと更新することにした。

S60

幻の昭和60年代後半もひとくくりにしてみると,5年遅れ(早い)「昭和」というdecadeは矢作俊彦の指摘を俟つまでもなく使い勝手がよい。

徹がペヤングにイカの燻製を入れて食べる発見をしたのは昭和66年で,ただ,それは徹が嬉々として説明するのにくらべ,遥かに美味いものではなかった。先のポストにリンクを貼ったとおり,徹が発見したペヤングの美味い食べ方を一番知りたがったのは昌己だった。しかし一口食べた途端,「これ,くどくねぇか」。結局,すべて食べた奴は誰もいなかったような気がする。

昭和67年のある日,アパートでウィルキンソンのジンジャエールのタンカレー割り(この場合,主客はこうするのが適当)を飲みながら,昌己と一緒に曲をつくっていると尾崎豊が死んだというニュースが流れた。昌己がギター,私はカシオトーンのマレットの音色でテロテロと弾いたその曲は,まったく即物的なものだった。聞き直して昌己がボソリと「尾崎豊が死んだことは曲にまったく影響してないな」と言ったことを覚えている。

昭和68年にはニコラス・ケイジの代表作「ハネムーン・イン・ベガス」が公開された。それしかないのか。

昭和69年,私は家庭をもった。

来なかった昭和70年には阪神淡路大震災とオウム真理教による事件が起こった。その後,いろいろ。

こうやって記してみると,何だか昭和60年代まではあったような気になってくるのが不思議だ。

S60

と書きながら,平成が始まってから数年の出来事について,時系列にまったく把握していないことに気づく。とりあえずの備忘録。

  • プレ平成~平成元年:免許をとって初めて買った車がファミリアという徹,伸浩のレヴィンなどで,週末にあちこちを回る。麻雀三昧。徹,昌己,伸浩と4人で泊りで高山に出かけ,私たち以外すべてカップルという体験はじめ,無茶苦茶居づらい場に身をおくことしばしば。
  • 1990(平成2)年秋:私の職場は新宿に変わった。同じ頃,弟がミラノに旅立ち,空いた新井薬師のアパートから会社に通うようになった。P-MODELは凍結し,平沢ソロは今一つという状況で,新宿・渋谷のライブハウスを離れ,高円寺や吉祥寺のライブハウスに通いはじめる。
  • 1991(平成3)年:スタジオに入り始めた。徹が武蔵小金井は引っ越す。昌己は実家立て替えの間,高円寺に移る。麻雀,ドライブが減り,伸浩と会うのは飲むときぐらいになった。ギター,ドラムマシン,MTRで曲づくり。本業は編集者だけれど,時間はそれなりに確保できた。
  • 1992(平成4)年:徹と会う機会が減り,週末は昌己と二人でスタジオに入ることが多くなった。中古のKORG T3を秋葉原から新井薬師まで抱えてくる。打ち込み同期ものに嵌る。
  • 1993(平成5)年:正月に高知でライブ。帰ると留守電に高橋さんの訃報が入っていた。バスルームシンガー用に曲のデータをまとめはじめた。スタジオに入る回数が減り,この年の秋にはアパートを引き払い,自宅に戻る。翌年の結婚を控え,資金を貯めるためだった。

岡崎京子の「東京ガールズブラボー」が連載されていたのは1990年後半から2年間だという。こうやってまとめてみると,見事に80年代にケリをつけたあのマンガと並行して,幻の昭和60年代後半がそれなりにあって,自分たちでそれを収束させていたようみえて面白い。

数多のグラフィティにならって記述すると,昌己とはその後も,多いときは月数回,少なくても何か月かに一度は飲んだり食べたりする関係が続いている。伸浩とは10年くらい会うことのない時期があったものの,数年前からときどき飲むようになった。和之とはSNSでときどきやりとりしながら,同じように年数回飲んでいる。喬史と裕一も,40歳を折り返した頃から,会う回数が増えた。当初は昔ばなしに終始してしまい,なんらからしくないなと感じたものの,その後は学生の頃のように,まったくばかばかしい話が出るようになった。会わないのは徹だ。10年ほど前,昌己の結婚祝いをタイ料理屋で開いたとき以来,連絡がとれない。

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