ビニール傘

岸政彦の『ビニール傘』をまだ読み終えていない。ページを捲りながら,玄月の「蔭の棲みか」が読みたくなり,一人の男のことを思い出した。

彼は60歳のタクシー運転手だ。淀川の向こう岸で大工の棟梁の長男として生まれ,育った。少年野球のチームで頭角を現し,甲子園をめざして高校を選んだ。幾度か大阪府大会の準決勝あたりまで勝ち進んだものの,3年間で結局,甲子園の土を踏むことはなかった。その後,大学,就職してからは社会人野球,彼の40年近くの生活は野球とともにあった。

証券会社に就職し,数年後に家庭をもった。折しも時はバブルの真っ盛りだ。懐具合はいい。子どもが生まれた。唯一,気がかりだったのは妻の実家といかにスムーズに関係をもっていくか。それだけで数年の時は容易く過ぎていく。

バブルが弾けた。何人もの同僚がこの世界に見切りをつけた。それでも彼は証券会社を辞めなかった。営業と野球で成り立った会社での立場を,一からつくらなければなくなったにもかかわらず。

父親の弟が起こした事故はそれでもきっかけの1つだ。相手が亡くなり,伯父はそのショックのため精神科に通うようになった。伯父は独り身で実家に同居していた。

妻の実家と折り合いが悪くなったきっかけについて,彼は一度として語ることはなかった。

彼は会社を辞めた。退職金を切り崩しながら次の仕事を考えよう。彼はそう考えた。

ある日,マンションに帰ると,そこには乱雑に持ち去られた家財の残りだけがあり,誰もいなかった。テーブルの上に子どもが書き記した手紙が置かれてあり,父親に向けて書かれたにしては他人行儀すぎる言葉づかいで感謝が述べられていた。代理人をたてた数度にわたる話し合いがもたれ,子どもは妻が引き取ることになった。そんなことは初手から決まっていた。所定の手続きを終えたにすぎない。マンションを処分して得た代金はほとんど妻と息子の手元にわたった。彼は実家で世話になることにした。

彼はもう少しで50歳を迎えるところだった。この歳で実家に世話になるなんて,両親はもちろん,彼自身も想像していなかった。しかし世話になるはずの実家で,彼は両親と伯父の面倒をみることになる。どんなときにも羽振りがよいとしか思えなかった父親に蓄えがほとんどないと知ったのは,実家に戻ってすぐのことだ。母親の持病,伯父の通院と病気ゆえに起きてしまうトラブルへの対応。顔見知りは歳を重ね,年賀状のやり取りよりも喪中はがきのほうが上回る。小さな工場が集まるあたりの衰退は甚だしいにもほどがある。

彼の50歳代には,だから,からだのきかなくなった両親と伯父,みごとに衰退した地元がただただまとわりついてくる時間だけが堆積した。あれほど人の出入りで煩わしかった家を訪れる親戚や知人はいない。

タクシー運転手になった理由についても語ることはない。お笑い芸人の誰を乗せた。で,どうだった。おしまい。母親が亡くなり,父親を施設に送り,伯父はグループホームで生きている。彼は生まれ育った家に独りで暮らしている。

「あの家,おるんや」

彼があるとき,久しぶりに家のことについて話した。「怖うて,二階で寝れへんて,ホンマ。ホンマやて,信じいひんかもしれんけど,あんたところにもおるんやで」。

週末

ここ数年,土日どちらかを出社する週がほとんどだったけれど,このところ,きちんと休むようにしている。当然,休んだほうが楽だ。とはいえ義父の家から持ち帰った品々を整理する懸案は一向に捗らない。整理を終える日がくるのだろうか。

昨夜のお酒が残っている。土曜日の午前中は酒を抜くために費やした。午後から少し部屋を片づけ,外へ。川沿いに新井薬師のほうまで歩く。KURIKURIで昼食をとろうと思ったものの,混雑のため席が確保できない。コーヒーをテイクアウトし,ちびちびと飲みながら西に向かう。早稲田通りを中野に向かうと緩やかな上り坂の印象しかないものの,上高田のあたりはいつくかの小さな丘陵が集まっているのだ。何度か上り下りを繰り返し,早稲田通りのかなり中野寄りまで着く。ブックオフで本を3冊。古本案内処を覗いたものの何も買わず。駅近くで,かなり遅い昼食をとり,新井薬師まで折り返す。

途中,rompercicciで休憩し,『戒厳令の夜』上巻を読み終えた。5,6人の客すべてが本と雑誌を読みながらBGMのジャズを聴いている。いまどきあまり見ない光景が,ここでは普通なのだ。フリーWifiが繋がっているにもかかわらず,スタバやエクセシオールカフェとは違う目的で入るのだろう。会計のとき,レジ横に「縄文ZINE」が置いてあったので一冊携える。『戒厳令の夜』と「縄文ZINE」なんて,できすぎだ。文林堂書店で,石森章太郎の『大侵略』と遠藤周作『沈黙』を購入。後者は今月の読書会の課題本。中井のセブンイレブンでマッドネスのチケットをもらい家に戻る。池袋に出かけていた娘・家内と夕飯をとる。

記憶以上に『戒厳令の夜』が重い。

日曜日も起きたのは遅い時間。朝食後,身支度をして娘と待ち合わせの吉祥寺に向かう。伊野尾書店で岸政彦『ビニール傘』。少し遅れて吉祥寺に着き,昼食はTALK BACK Bicoqueに入った。娘が小さな頃,1,2回入ったことがあるが,当時のことは覚えていない。と記憶をたどってしまうくらいコストパフォーマンスがよかった。食事が終わる頃,家内からメールが入り,公園口で待ち合わせる。娘と一緒に迎えに行き,とりあえず1時間後に丸井前で再度,待ち合わせることになった。

古本センター,よみた屋を見る。どちらも買うまでに至らない本が並ぶ。井の頭通りから一本内側に入った通りを歩く。10年くらい前まではマンダラ2だけではなく,サブカル系の古本屋やCDショップなどがこのあたりまで広がっていたのだけれど,いつの間にか店はなくなり,落ち着いた街並みなっている。よみた屋も最初,こちらの通りにあるのだとばかり思っていた。バサラ・ブックス店頭の3冊200円コーナーから3冊。読み終えたら一箱に入れて並べよう。

羅宇屋の跡地をチェックした。なぜかGoogleで「羅宇屋」を検索すると,このサイトがひっかかるようで,当時の通信や跡地の写真くらいはアップしなければと思ったのだ。

ゆりあぺむぺるで休憩し,東急裏の方に向かう。もう少し公園口に行ったビルの地下に,同じような喫茶店STONEがあったのだけれど,6,7年くらい前になくなってしまった。新刊書店もないし,やはり街並みは変わる。その後,百年をみたけれど,ここでも何も買わなかった。しばらく歩いて,夕飯は砂場に入る。元・三浦屋の地下で,なんだかこのあたりは落ち着く。

東中野経由で21時くらいに家に着いた。

chance meeting

暖かい一日。

夕方,住吉まで打ち合わせに出かけて,そのまま直帰。森下で“だるぶっくす”さんと待ち合わせ。四半世紀前,お世話になっていた印刷所はこのあたりだったので当時は年に数回,出張校正にやってきた。覚えているのは,印刷所でお昼を出してくださって,最初はうな重だったのに,同僚の一人が苦手だというので途中から中華定食に変わってしまったことくらいだ。最近は古書ドリスさんに出かけるとき以外,森下で降りる用事はない。

はじめて入った古書ほんの木さんで,『サムライ』を発見。矢作俊彦と押井守の対談を読みたくて探していたのだ。昨年,神保町で見つけたときとほとんど同じ金額だったけれど購入した。だるぶっくすさんがやってきて,近くの居酒屋で飲む。その後,近くのバァに移って,気がついたら23時近く。楽しかった。久しぶりにかなり酔ってしまう。

Webを使いはじめて20年近くになる。この間,Web上の知り合いが何人ができた。とはいえ,実際にお目にかかったのは,もしかするとだるぶっくすさんが初めてかもしれない。一箱古本市を通してTwitterで知り合った方とは雑司ヶ谷で接したことは何度もあるけれど。

ひと回り以上年下の知人ができるというのはなんだかうれしい。トクマルシューゴと箱のつくりかたワークショップ。

このところ,歳をとった感がひたひたと押し寄せてきて,少し持て余し気味だった。だるぶっくすさんに声をかけてもらったおかげで,それが身の丈に吸収されたようで,少し力が抜けた。ありがたいな。

雪は汚れていないどころか降っていなかった

娘の誕生日だったので,夜は家族で夕飯をとる。カーポラヴォーロで食事と演劇のコラボ「季節はずれの幽霊レストラン」。Alive a liveの演劇ごはんというシリーズのVol.3だそうだ。会場がレストランなので,ステージはあつらえられていない。レストランのレイアウトを利用して,うまい具合に芝居をすすめていく。何回か,客も参加する形をとりながら1時間程度。食事と演劇のコラボなんて考えたことなかったので,とても面白かった。

19年前のこの日は,まだ大泉学園に住んでいて,何回か記したことがある。それよりも何度も書いたのは翌日のことだ。その日は雪が降っていて,私は昌己,イラストレータと3人で江古田で遅くまで飲んだ(その後,Webでチェックしたところ,この日を含め前後も雪は降っていないことになっている。こう記憶がすり替わってしまっては,いくら書き留めていようと,記録としての意味はそがれるな)。その夜,江古田コンパに初めて入ったのだと思う。筆舌に尽くしがたいほど飲み(飲まされて),それでも,どうにか家まで辿り着いた。翌日午前中に編集会議があったのだけれど,その時間まで酒は抜けない。何度も水を飲みに給湯室に入ったことを覚えている。

家庭をもってからこっち,いまだに全体が一塊の記憶になっている。その記憶の塊はそのままで,小分けにされた記憶の塊がいくつが出来上がっている感触を,20年以上経てようやくもつようになった。

それでも娘自身の7歳から19歳までの12年間と,私の12年間では塊の数がぜんぜん違うのだろう。私にとっての12年間の記憶は,せいぜい3,4個の塊にするくらいで十分だ。

芝居が終わると劇団の俳優各氏が給仕に早変わりする。野菜中心のイタリアンのコースが美味しい。デザートのときは娘のプレートをデコレーションしていただき,さらにバースデイソングというかコール。自分以外ならば,たとえ身内のときでも,こういう場のほどよい賑やかさは心地よい。

食事を終えて,外に出た。雨が降ったかのような冷たさが手の甲を打った。路面に湿った様子はない。気のせいだったのだろうか。

死すべき定め

今を犠牲にして未来の時間を稼ぐのではなく,今日を最善にすることを目指して生きることがもたらす結果を私たちは目の当たりにした。

ガワンデの『死すべき定め』は,あと少しで読み終わる。210ページを過ぎたあたりからのやりとりは,まったく他人事とは思えない。現在をどのようにしていくか考える。そのときに参考になるのは経験をもとにした過去だろう。現在を抜きにして過去に思いめぐらせても教条主義に陥る。

あれがすごい,これもすごい,とり入れたらうまくいく。「出羽の守」を厳しく批判したのが誰だったか忘れてしまったけれど(データを検索すれば出てくるかもしれないな),いまだに出羽の守は,まあ盛んにあちこちに登場している。と,記しているそばからみずから出羽の守に陥ってしまっているかもしれないが。

以前大学生のグループから抗議を受けたことがある。いったい,この授業の狙いはなんですか。はっきり言ってください。そうすれば,わたしたちはそれにちゃんと合わせてみます。それがなくては,なにをすべきか分からないじゃないですか。わたしは思わず笑いだして,まんまとわたしの狙いにはまったな,と言ってしまった。わたしは,今,ここで,生きて体験してほしい,体験から自分で考え歩き出してほしいので,なにかを教え込んだり訓練したいのではない。「……のために」ということは,未来のために行為することで,今,をゼロにすることです,と。
竹内敏晴:癒える力,p.162-163,晶文社,1999.

たぶん,私は,この竹内さんの一文と特撮の「パティ・サワディー」の歌詞の間を,いったりきたりしているのだろうと思う。

とりあえず『死すべき定め』は,もう一度,メモをとりながら読む予定。

Top