ラジオ

「永六輔」と冠したポストは気が引けるので。

キャンディーズのファイナルコンサート告知がそのカウントダウンとともに毎夜,オールナイトニッポンで奏でられる少し前,偶然に自切俳人のオールナイトニッポンを聞いた。当時は北山修のことはまったく知らなかったので,面白いセンスのDJだなあと思った記憶がある。当時,番組の一コーナーに寄せられたリスナーのハガキを集め刊行された『真夜中の辞典』はいまだ手元にある。「孤独のマラソンランナー」「世界はキミのもの」「ゆめかしーら」と番組経由で新曲がリリースされたけれど,ナターシャセブンについて知るのは1,2年先だった。

昭和50年代が始まり,情報の伝達速度がおそろしく加速したことを思い出す。

その年の3月。自切俳人のオールナイトニッポンは最終回を迎えた。公開録音だった。北山修名義で少し前にリリースされたアルバム「12枚の絵」から「夢」が歌われて番組は終了した。それでも,「夢」が北山修の曲だと知るのは,やはりもう少し先のことだ。

数日後,キャンディーズのファイナルコンサートがオールナイトニッポンで放送された。宇宙戦艦ヤマトのラジオドラマといい,当時のオールナイトニッポンは,火を炊きつけるのが上手かった。メディアとはそういう類のものだと思いながらも,当時を思い出すと嫌な気分になる。まるで動員されてしまったかのような,あれは熱狂だった。

レコード店でアニメ関連の棚に行くようになったのはその頃のこと。新星堂の邦楽の棚を通して,北山修,ナターシャセブン,杉田二郎,加藤和彦,ザ・フォーククルセダーズ,数年前までトップランナーだったものの,当時は古いミュージシャンという印象が強い面々のレコードに出会うことになる。この間,ほんの5~6年なのだ。吉田拓郎は人気があり,井上陽水,かぐや姫の3人,チューリップ,さだまざし,アリス,そのあたりがチャートの上位にいた頃だ。

小学5年生だった私は高校に入っていた。

「宵々山コンサート」「いこまいか」の2枚組みライブアルバムを見つけたのは,昭和54年のことだと思う。(まだ,つづきます)

日曜日

日曜日の朝。7時台には目を覚ます。朝ごはんを食べながら,日本テレビの紀行番組,園芸番組,DIY番組,みゆき野球教室などを見る。月に数回はラジオを持って自転車をベランダから出して洗う。屋根や壁にソフトボールを投げ,一人キャッチボール。弟が顔を出す。彼はまだ少年野球チームに入っていない。そのうちに友だちが自転車でやってきて,建築現場の資材をメカに見立てて勝手に秘密基地を作る。ラジオが鳴っている。

ニッポン放送の「日曜はダメよ」とその前後,ヒットチャート番組や,不思議なことに日曜日だというのに永六輔の番組を聴いた記憶がある。あれは土曜日の床屋でのことだったのだろうか。

昭和50年,私は小学5年生だった。

永六輔

自切俳人と名乗っていた頃の北山修に影響を受けたことは,これまで何回か記した。はじまりはBCLブームだったのだろう。

昭和50年代に入った頃,海外の短波放送を受信しベリカードを送ってもらう趣味が小学生にまで広がった。中野照夫はいまだにスカイセンサーを“楽器”として用いているようだけれど,その頃,ラジオは恰好のよいモノだった。その少し前にトランシーバーブームというのがあって,それが発展したのかもしれない。

ラジオがあるのだから,ラジオ放送を聴くようになる。深夜放送前,21時台あたりから各局,力の入ったプログラムが練られていた。はじめはラジオ図書館風のコーナーから聴いたような気がする。それがだんだんとディスクジョッキーの“しゃべり”(この特殊な言葉は,その後J-WAVEが開局した頃,業界人の間でしばしば用いられた。この項,そのあたりまで続けると思います)の好みが出てくる。

友人からニッポン放送が面白いと聞き,ダイヤルを合わせたものの,じきにTBSラジオのほうが好みに合うと気づいた。「夜はともだち」,小島一慶,林美雄の頃だ。午前を過ぎてまでラジオを聴かなかったので,当時はギリギリこのあたりまででも十分宵っ張りだった。そのうち,当時北関東に住んでいたというのにMBSヤングタウンに移る。ここでも午前0時を過ぎて聴くようになるのは少し後のことだった。(長くなりそう。永六輔の話が登場するのはかなり先)

選挙

土曜日の夜,ラーメンを食べた後で飲んだ獺祭がきいたのかもしれない。アルバイトに行く娘を5時に起こし,少し眠ってから事務所に出かけようと思ったものの,非道い頭痛だ。結局,昼まで休んでいた。そこから洗面をして,投票を済ませ,事務所に向かう。ブルーナの『意味の復権』(ミネルヴァ書房)が5月に復刊されていたことを思い出し,行きがけに芳林堂書店で探すものの見つからない。すでに売れてしまったのならいいのだけれど。春先から棚を眺め,器が残っただけなのかもしれないと感じることがある。

事務所でたまった依頼書を書いたり,メールの返事をしたり。そんなことをしていると19時近くになってしまった。読みかけの木田元『反哲学入門』(新潮文庫)は面白い。本来ならば岩波新書あたりに入っていてよい内容と語り口だ。これが新潮文庫に入ったのが奇妙とはいえ,ちくま文庫に放りこまれることを思えば,数倍マシだろう。

芳林堂書店に置いていない本をブックオフで見つけたことが何回かあったので試しにのぞいてみた。結局,『意味の復権』はなかったものの,見当たらないそのことに少しだけホッとした。

喉がかわいたのでビールを飲んで帰ろうと思い,店を探す。しかし,高田馬場には1人で入るとなると手頃な店が少なくなってしまった。結局,チェーン店の定食屋で中ジョッキとフライドポテト+ソーセージ。470円というのはかなり安い。夕食の時間帯なので,友だち同士の若者で混雑している。

「部屋に戻ってもテレビは選挙速報ばっかりでつまんねえな」

「早く寝ちゃおうかな」

そんなやりとりが聞こえてきた。青年が数人,カウンター席に横一列並んで座る。

だったら,美少女戦略投票ゲーム(そんなのあるのかどうか知らないけれど)を通して,この理不尽な選挙戦に巻き込んでしまうというのはどうだろう。いったい何のために。いや,この際,それでいいのではないかと,思った。その理由がわからない。

家に戻り,家内と娘と選挙速報を見ながら夕飯をとった。

だいたい「アベノミクス」って,「ノ」が日本語なのか英語なのかわからないのだよ。「あべのハルカス」はわかるけれど。「アベノミクス」という言葉を,だから使っている時点で「アベノミクス」なるわけのわからないものに絡めとられてしまっているに違いない。なんでもプロセス評価抜きのアウトカム指向らしいから,そんなものにいつまでも,つき合わされたら,底なし沼だ。まずは「アベノミクス」という言葉を死語にすることから始めるのがよいと思うのだ。

政治

昼休みに用事へと出かけたついでに昼飯を済ませてしまおうと思った。手持ち無沙汰だったので,駅前の書店で加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)を買い,近くの中華料理店に入った。

料理がやってくるまでの間,ページを捲った。

政治は大衆のいるところで始まる。数千人がいるところでなく,数百万人がいるところで,つまり本当の政治が始まる。

というレーニンの言葉が引用されるのを目にし,途端,得体の知れない苦いものが喉を落ちた。

サブカルでしか喩えられないのだけれど,1980年のマンザイブームで「表/裏」が「タテマエ/本音」に置き換わってしまった。「One/The Other」が綱を引っ張り合うパワーバランスなんて,そんなに面白いものではないし,そこに何かの価値が生まれるとも思えなかった。Anotherは初手から敗北宣言の上に立っている。平沢進はそのことを“Goes on ghost”という曲に仕立てた。

加筆せずに第24回参議院選挙当日になってしまった。

投票所を出た少し先の投票者ポスター掲示板前に若い男性の姿。誰に入れるか悩んでいる様子だった。彼の横をかすめしばらくして振り返ると、投票所の方に進むのが見えた。

この暑いなか、足を止め、考える。答え探しではない考えとその姿に憧れる。悩ませてしまう状況になったことを悔いる気持ちはない。

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