昭和60年代

宇都宮病院事件が起きたことで,反精神医療以降,動きが少なかった精神科医療が揺さぶられ,結局,精神衛生法が精神保健法に変わった。イタリアにおける精神科病床削減のレポートが出たのもこの時期だった。

浅野健一が『犯罪報道の犯罪』を著し,その後,報道のありかたが大きく問われた。

2つの例しか挙げず,それもかなりざっくりした評価だけれど,昭和50年代の終わりに起きたことをもとに,昭和60年代に入って,いくつか変わったことがある。結局,平成になって,ほとんどチャラになってしまったのだけれど。

このところ,昭和60年代を繰り返しているような感じがする。にもかかわらず,それがまったく面白くない。

幽霊たち

午後から早稲田大学で,アクション・リサーチに関するセミナーに参加した。

20年くらい前,ある労働問題に関する研究所の所長からアクション・リサーチについて聞いた。課題に研究者自らかかわり,(そのときは)住民と一緒になって解決をめざす。そのことを研究としてまとめる,という意味だと記憶していた。

自然科学系以外の研究者が,好むと好まざるとにかかわらず,そのなかに身を置いてしまう研究の態度といわれると,なるほどと思った。そうか,アクション・リサーチってポール・オースターの『幽霊たち』のことか。

夜と霧の隅で

26日未明に悲惨な事件の報。相模原の障害者施設で,元職員が入所者を殺傷する事件が報じられた。

当初から,複数の視点で報道があった。1つは,「元職員による犯行」という点に光を当て,いかに介護現場が大変であるかという論点。

また,障害者施設のセキュリティの脆弱さを指摘する報道もあった。

それらを何とかしなければならないのは当然だろう。とはいえ,容疑者による,まるでナチスのT4作戦のような話が出てくるに至り,論点もなにも失せ,頭を抱えこんでしまった。メサイヤ・コンプレックスの発露は,対人援助職がもっとも気をつけなければならないことだろうに。

一般化しうる教訓を得なければならないとはいえ,これは特殊な犯罪だと思う。

今回の事件で顕在化したものは,弱者排除ではなく,優生思想。正常とか健康が幅をきかせると,そこに追従する者が出てきて,結果,ろくなことにならない。正常や健康は除外診でしかないはずなのだけど。

優先思想は、結果として弱者排除を生じるものの、効率性と狭義の美意識が先立ってその根底にあるような気がする。

健康と正常で人を絡め取ろうとする。迷惑で済まないから,たちが悪いし恐ろしい。

効率性と美意識をフラットにするには「慣れ」以外ないのだが、その土俵がしつらえられないのが辛い。

宵々山コンサート

「いこまいか」に先立つ数年前から,京都の円山公園で毎年,宵々山コンサートが開催されていた。永六輔さんについて,だから旅番組に出てくる文化人っぽい人という漠然とした印象が,もう少し具体的になったのは,宵々山コンサートを通してだった。企画は永六輔さんと高石ともやさんが主に担っていたようなのだけれど,この二人がどこでどう繋がったのか今となっては興味がある。

当日の演奏からピックアップした2枚組みのアルバムが数年にわたりリリースされた。そこには永六輔さんの前口上や,淀川長治の講演,おすぎとピーコの歌などというものも収録されていた。ライナーノーツも読み応えがあり,当時のアルバムはその可能性を目いっぱい広げて企画リリースされていたことを思い出す。

昭和50年代末に宵々山コンサートが終焉を迎えてから,医療系出版の仕事に携わるまで10年くらい間がある。10年後に目にした永六輔さんは,マルセ太郎の芸を再評価した人として現れたり,地方で地道に活動する医療者を応援する人として現れたりした。ただ,中・高校生の頃は感じなかった匂い――小林信彦と同時代で,放送関係で一世を風靡した人に共通するのだけれど――が得意でなかった。横目で覗くくらいで,じかに話す機会はなかった。そのことを残念に思いはしない。

このところ,永さんの最後を看取った看護師さんたちと仕事をしていたところだったので,少しだけうかがった。実に見事な最期だったそうだ。

ラジオ

高校1年のときだったと思う。友人と夜行電車で椛の湖に出かけたことがある。夜中の0時に新宿駅から発車する中央本線に乗った。11時半前から,ホームではなく階段を降りたところに列をつくり,順番に車内に入った。テントと飯盒に毛布を抱え,寝台車ではないその電車の座席に体を伸ばして眠ったことは覚えている。

坂下だったかの駅から,しかし,どうやって椛の湖まで辿りついたのか記憶にない。たぶん担いだまま歩いたのだろう。友人との気まずい沈黙と,わけのわからない疲労感は思い出すことができる。

「いこまいかピクニックコンサート」の3回目くらい。ダウンタウンブギウギバンドが出たかどうか,そのあたりは確認しなければわからない。自切俳人とヒューマンズーに杉田二郎,高石ともやとザ・ナターシャセブンが出たことは確かで,この年からヒューマンズーのステージに力が入った。

会場にはフリーラジオ放送が流れていて,そのDJは自切俳人=北山修が担当していた。

その頃,自切俳人の番組はKBS京都の「サバイバル宣言」という30分のものくらいしかなかった。どこで得た情報をたよりにその番組にたどりついたのだろう。昭和50年代に固有名詞からの連想で,必要な情報につながることがしばしばあった。たぶん私の世代が固有名詞に弱い(こだわってしまう)のは,あの頃の情報の得方と関係がある気がする。

その番組は変則的な放送で,週の前半/後半だったか,隔週だったで岡林信康と交互の登場した。アルバム「ストーム」のプロモーションのため岡林がゲスト出演したことを思い出す。やりとりまで記憶に残っているのはたぶん毎回,エアチェックしていたのだ。KING CRIMSONが復活するまでの数年間,大学受験が迫ってくる(迫っているのではなく)というのに,ラジオとロックとマンガ,加えて小説にどっぷりと嵌っていた。KING CRIMSONが復活してしまったのは受験前の秋で,もちろん翌年の受験は散々な目に遭った。自業自得だ。

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