9月14日

7月以来,2度目の国会前。

池袋で有楽町線に乗り換え,桜田門で降りる。何やら警官か駅員に誘導されたと思しき高齢者が進行方向側の出口に折り返す姿。改札を出た先,1番,2番出口は封鎖されていて,すでにヒートアップしているデモ参加者(それは当然なのだけど)は警官が押し戻して,他の出口へと向かわせようとする。その諍いを横目に,私は止められることもなく封鎖の横から2番出口を上がった。

国会前の交差点が封鎖されている。横断歩道の信号が青になっても渡ることができない。国会前へ向かおうとする人がたまる。コールの音頭とりの声が出て,レスポンスが続く。男の声,女の声,若い声,歳を経た声。鳴るリズム,苛立ち,怒り,そして前を目指す意思。どれも7月より遥かに強い。

壁代わりの警察バスがやってきて,2つの横断歩道の真ん中で止まる。渡る人数を少なくしようというのだろう。「段差に気をつけて」「ゆっくり」,同じ“こちら側”感が広がる。

横断歩道を渡りきると,溢流する人がまだらになる。すでに中央の路上は開放されていた。そのまま国会方向へと上がっていった。こちら側,あちら側,コールが響く。しばらく歩くと,その先がなくなった。

ロジャー・ウォーターズや村上春樹のおかげなのか,塀との区別はつくものの( 塀はハンプティダンプティが落っこちる前にいたところ,というように),「あれが壁だ」と指差した記憶はない。

はじめて目の前に,こちらとあちらを隔てる壁を見た。

小田原

小田原で取材を終え夕方,東口に出た。

昼食をとり損ねたので栄華軒でビールとギョウザ,半ラーメン。そのまま高野書店をめざす。昔ながらの日よけが並ぶ商店街に交差する通りの奥にあった。『エリック・ホッファー 魂の錬金術』を購入。大塚英志の単行本も買おうかと思ったものの荷物が増えそうなのでやめにする。少し戻って伊勢治書店で『時代の正体』と『ジゴロとジゴレット』。佇まいが定有堂書店のにぎやかだった頃とどこか似ている。客の感じだとか,そういうところで。隣の茶舗江嶋で栗茶巾,帰り道の洒落たパン屋でいくつか買って帰宅。

『時代の正体』を帰りの小田急線の車中ページを捲っていると、ふとSEALDsとキュウソネコカミのダイレクトさが重なった。何の理由も伴ってはいないものの。

寝る前に『ジゴロとジゴレット』。新潮文庫のスピンの色が変わったのかと思ったら、文庫用ブックカバーにスピンがついていた。素敵なカバーだ。知っていたら,新潮文庫以外の文庫を買ったのだけれど。

あなたを選んでくれるもの

ミランダ・ジュライの『あなたを選んでくれるもの』(新潮社)に現われるロンは,まるでデヴィッド・リンチの劇中登場人物のようで,それでもなお「彼を信じるこの世でただ一人の人になりたい」と記さずにいられない著者の感情が,なぜかとても身近に感じる。

とともに,登場するパソコンとの親和性に乏しい一人ひとりが,デヴィッド・リンチの映画を通して遭遇した米国のアリバイのようなリアリティを持って迫ってくる。リアリティもなにも実際の生活者だから当然なのだけど。

もしかしたらわたしは,自分の感覚や想像力のおよぶ範囲が,世界の中のもう一つの世界,つまりインターネットによって知らず知らず狭められていくのを恐れていたのかもしれない。ネットの外にある物事は自分から遠くなり,かわりにネットの中のものすべてが痛いくらいに存在感を放っていた。顔も名前も知らない人たちのブログは毎日読まずにいられないのに,すぐ近くにいる,でもネット上にいない人たちは,立体感を失って,ペラペラのマンガみたいな存在になりか けていた。
同書,p.165-167.

映画の主人公はソフィーとジェイソンのカップルだ。二人はひどく年寄りで病気の野良猫“パウパウ”を引き取ることにする。その猫は生まれたての赤 ん坊のようにつきっきりで世話をする必要があるのだが,赤ん坊と違って,死ぬまでその世話が続く。猫はあと半年で死ぬかもしれないが,もしかしたら五年生きるかもしれない。ソフィとジェイソンは猫を助けたい気持ちのいっぽうで,もうすぐ自分たちの自由が失われてしまうのだと気づいて愕然となる。
同書,p.8-9.

下のくだりを読んだときの感覚が何かに似ている気がした。あれこれ考えたところ,それは羽田圭介の「スクラップ・アンド・ビルド」で,あの小説の印象がまた変化した感じ。

宇都宮

ユニオン通りからオリオン通りへと下った。ユニオン通りの角には落合書店があったけれど,草臥れた感じに見えた。通りの両脇には社会人になれば,それなりに時間を費やすことができそうな洒落たバァとブティックが抜けた歯のようにぽつりぽつりと店を開けていた。宇都宮で社会人になるということは8割がた公務員ということだ。この歳になると,ありえたかもしれない宇都宮で社会人として過ごす自分を想像して少し怯えた。

ホテルにチェックインしてから,街なかに出ようと思った。オリオン通りと東武百貨店を横目に大通りのほうへ折れた。左角には上野文具店が店を構えていた。洒落たつくりになっていたけれど,古びた感じがした。

ホテルは昔からあったような記憶がある。まったく縁がなかっただけだ。バスを降りて以降,30年前にあったにもかかわらず,まったく関係をもつことがなかった店がそれなりにあることに気づいた。

夜9時になった。日中の雨が戻ってきたのか,ぽつりぽつりと肩にあたる。オリオン通りに入ると,空気が沈んだ。

この時間に街中を歩くのは酔っ払いがほとんどだった。カクテルやらギョウザ,ジャズなどで地域起こしを始めてから久しいというけれど,ただしまりがなくなった感じだけが漂ってくるのは気のせいだろうか。オリオン通りを一本奥へ入ると飲み屋街だったことを思い出す。県庁の裏側も全体,そんな具合だ。

高校時代に入ったような気がする小体な中華料理店でギョウザとビール,油淋鶏で夕飯を済ました。カウンターとテーブルが3つ,テレビのスポーツ番組をBGMに客は二人だけだった。

すっかり他の店に入る気分がしなくなった。ホテルに戻り,半村良の短編集を読んだ。

古本屋と記憶

相変わらず積み重ならないので,落穂ひろい。

8月の終わり。郡山での学会取材の帰り,30年くらい振りに宇都宮で降りた。小学生の頃,はじめて古本を購入した山崎書店がまだ健在だと知り,出かけようと思ったのだ。

市街地に向かうためバスに乗ると,二荒山神社を「ふたあらやまじんじゃ」とアナウンスされたのに驚く。昔は「ふたあらさんじんじゃ」だったはずなのだが……。

ホテルにチェックインするより先に,記憶をたよりに乗ったバスだけれど,古本屋近くを右折するルートのものだった。昔も,ときどきそんなふうにして無駄な距離を歩いたことを思い出す。

バス停で降り,来た道を引き返す。道沿いの店はなんだか記憶にあるようなないような様子だ。少なくともここ30年,風景がドラスティックに変化したようには思えなかった。

大通りを渡り曲がった途端,目の前に「山崎書店」の看板が現れた。小さな古本屋だけれど,ここで手に入れた本の何冊かは,いまも自宅の本棚に並んでいる。

店内の匂いは変わらず,埃だけが積み重なったような佇まい。

本が増えたのか売れないからかわからないが,壁のような書棚の足元にまで本が積まれ,行き来するのがやっかいだ。30~40分眺め,文庫本を買って,店主と二言三言。店主の高齢化による廃業が相次ぎ,市内中心部に古書店は二軒しか残っていないとのこと。山崎書店は昔から郷土史に関する文 献資料がかなり充実していて,いまもその冊数は凄い。“地域の歴史に関する情報は古本屋に集まる”時代があったのだけれど,その役割はどこかで代替可能な のだろうかと思いながら,店を閉める時間だというので外へ出た。

レジ横にかなりの嵩だかで置かれていた市内古書店マップを持ち帰る。それはまだ国鉄時代の地図で,そこに並んでいる百貨店の名前は私の記憶そのままだ。『ららら科學の子』をなぞらえたような時間だった。

マンガや文庫はもとより,この古本屋で『宗教と反抗人』など,コリン・ウィルソンの本に遭遇したことを思い出す。この並びに,古道具屋の一列が古本でスペース確保された店があって,そこで『ライ麦畑でつかまえて』を買ったのだけれど,当然,そんな店はどこにも残っていない。

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