古本屋と記憶

相変わらず積み重ならないので,落穂ひろい。

8月の終わり。郡山での学会取材の帰り,30年くらい振りに宇都宮で降りた。小学生の頃,はじめて古本を購入した山崎書店がまだ健在だと知り,出かけようと思ったのだ。

市街地に向かうためバスに乗ると,二荒山神社を「ふたあらやまじんじゃ」とアナウンスされたのに驚く。昔は「ふたあらさんじんじゃ」だったはずなのだが……。

ホテルにチェックインするより先に,記憶をたよりに乗ったバスだけれど,古本屋近くを右折するルートのものだった。昔も,ときどきそんなふうにして無駄な距離を歩いたことを思い出す。

バス停で降り,来た道を引き返す。道沿いの店はなんだか記憶にあるようなないような様子だ。少なくともここ30年,風景がドラスティックに変化したようには思えなかった。

大通りを渡り曲がった途端,目の前に「山崎書店」の看板が現れた。小さな古本屋だけれど,ここで手に入れた本の何冊かは,いまも自宅の本棚に並んでいる。

店内の匂いは変わらず,埃だけが積み重なったような佇まい。

本が増えたのか売れないからかわからないが,壁のような書棚の足元にまで本が積まれ,行き来するのがやっかいだ。30~40分眺め,文庫本を買って,店主と二言三言。店主の高齢化による廃業が相次ぎ,市内中心部に古書店は二軒しか残っていないとのこと。山崎書店は昔から郷土史に関する文 献資料がかなり充実していて,いまもその冊数は凄い。“地域の歴史に関する情報は古本屋に集まる”時代があったのだけれど,その役割はどこかで代替可能な のだろうかと思いながら,店を閉める時間だというので外へ出た。

レジ横にかなりの嵩だかで置かれていた市内古書店マップを持ち帰る。それはまだ国鉄時代の地図で,そこに並んでいる百貨店の名前は私の記憶そのままだ。『ららら科學の子』をなぞらえたような時間だった。

マンガや文庫はもとより,この古本屋で『宗教と反抗人』など,コリン・ウィルソンの本に遭遇したことを思い出す。この並びに,古道具屋の一列が古本でスペース確保された店があって,そこで『ライ麦畑でつかまえて』を買ったのだけれど,当然,そんな店はどこにも残っていない。

巴里茫々

北杜夫の『巴里茫々』を古本屋で手に入れたのは少し前のこと。最晩年に刊行されたこの本はまだ読んでいなかったのだ。100円棚に無造作に置かれたきれいな上製本をそのままにしておくのは忍びなかった。このところ,そんな理由で本を抱える回数が増えた。

2編が収載されていて,表題の,内容が整理されていない感じは懐かしい。とにかく北杜夫は文章がきれいだ。中学から高校に至るかなりの時間,この人の文章を読んで過ごしてきたことが思い出された。

少し前,河出書房新社から数冊出ているエッセイの再編集版を買って読んだあたりを契機に,少しずつ北杜夫の小説を読み返している。初期の短編はもとより「ぼくのおじさん」でさえも,いまにして思えば“ここではないどこか”を希求する登場人物による物語りで,その求心力はいきおい“どこか”に向けて高められる。北杜夫の小説については奥野健男くらいしか評論を読んだ記憶がないけれど,誰か書かないだろうか。

結局,博打と株に手を出さずに,小説とエッセイを書き続けながら,晩年はどこかの大学教授を兼務するという選択だってできたはず。たとえば辻邦生のように,だ。

出口裕弘は三島由紀夫に関する評論のなかで,バタイユと賭博について触れている。ロシアンルーレットにさえ手を出したというバタイユ。ちょうど,そのあたりを読み終えたところだったので,北杜夫の博打についても躁鬱病とは別に,それ自体,興味深い分析の対象になるように思った。

1980年代に入り,『輝ける碧き空の下で』を読んで,やはりすごい小説家だと感じた頃,しかし巷では,少し北杜夫の小説は時代遅れのようにいわれていたように思う。すでに村上龍と村上春樹が登場していたし,小林恭二が控えていた。小説に端正さ以外であれば何でも求められるようになった頃のことだ。

私は北杜夫から矢作俊彦の小説へと興味が移っていった。

後に矢作俊彦が,日本の小説家である程度読んでいるのは,三島由紀夫と北杜夫くらいと語っているのを目にしたとき,結局,私の関心のありかはあまり変わらなかったのだと思った。

ミステリマガジン

矢作俊彦「真夜半へもう一歩」が掲載された「ミステリマガジン」をなかなか探し出せず,二村について続けて書くことができない。「ヨコスカ調書」が4回にわたり掲載されたあたりは見つかっているので,こちらから先に書いたほうがよいかもしれない。

中井英夫や出口裕弘,さらに晩年の北杜夫の読み残していた小説などを捲りはじめていて,何だが高校時代に戻ったような読書体験が続いている。

今月の課題が羽田啓介の「スクラップ・アンド・ビルド」だったので「文藝春秋」を買って読み始めたところ,予想以上に早く読み終えることができた。この文体,誰かに似ているんだけど。又吉直樹の「火花」の冒頭が,まるで町田町蔵のような文体なのと同じように。

亡国記

高田馬場で手に入れた『亡国記』(北野慶,現代書館)を読み終えた。巨大地震により島岡原発が大破。首都機能は北海道に移転。前半は『日本沈没』第2部のインサイドストーリーのような感じといえるかもしれない。著者のは小説家ではないようで,盛り込まれた情報量に比べて,全体は映像作品のノベライズっぽい。

次へ次へとページを捲らせてしまうテーマのシリアスさは確かにすごい。ただ映像作品として企画した方がよかったのではないかと,やはり思うのは,全体,マンガや映画で展開する切り方なのだ。登場人物の造形といい,妙に類型的に貼り付けられている感じがする。『日本沈没』や『あ・じゃ・ぱん』は,だからこの作品に比べると,間違いなく小説だと今更ながら感じた。たとえ『あ・じゃ・ぱん』が当初,大友克洋との共作を意図して構想されたとしても,ひとたび小説として描かれると,それが小説になってしまうのとは違う。

とはいえ,本書を読みながら,危機のなかでのさまざまなシミュレーションに多くの刺激を受けた。

レノックスヒル・ホスピタル

矢作俊彦の短編集『ブロードウェイの自転車』に収載されている「レノックスヒル・ホスピタル」は,「ミステリマガジン」1980年9月号,10月号に掲載されたエッセイ「緊急の場合は」をもとにしたものである。

1979年に「ヨコスカ調書」連載を放っぽり出して(?)ニューヨークに行ってしまった矢作俊彦が実際に体験したことなのだろう。「レノックスヒル・ホスピタル」のように,元になる体験があらかじめ発表されているケースはあまりないけれど,いつのまにか寡作とはいえないほどの作品を発表している矢作俊彦の小説のなか,どれくらいの体験が織り込まれているのか想像するには,あまりにもまとめられたエッセイや発言が少ない。
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