中井英夫

「人を取除けてなおあとに価値のあるものは,作品を取除けてなおあとに価値のある人間によって作られるような気がする」(辻まこと)ということで,鶴見俊輔関係の本を捲っていたところ,すっかり忘れていたくだり。

小熊 ……共感する同世代の人はいますか。
鶴見 強いていえば,中井英夫。彼は永井道雄や嶋中鵬二とならんで,私の小学校一年からの同級生だけど,彼の政治的な立場には,私はとても共感できる。
小熊 中井さんの立場というのは,どういうものだったんですか。
鶴見 彼は戦争中に,三宅坂の参謀本部にいたんだよ。召集されて,暗号兵をやっていたんだ。そのときに彼が書いている日記が『彼方より』(潮出版社)って いう記録になっているんだけれども,まったく戦争憎悪の日記なんだ。あれはすごいね。私だって遠慮して,あれほどは書いていないのに。ああいう反戦思想 を,三宅坂の参謀本部の暗号兵の部屋で,日記に書き続けていたんだから,命がけだよ。

鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二;戦争が遺したもの-鶴見俊輔に戦後世代が聞く,p.95,新曜社,2004.

1970年代の初めに刊行された三一新書で,埴谷雄高と中井英夫,たぶん鶴見俊輔も名を連ねて,内ゲバ終結を促すメッセージ集のような本が刊行された。少し前に記した通り,夢野久作全集を通して,埴谷雄高や鶴見俊輔を知ったこともあり,このメンバーに違和感をもったことはなかったけれど,中井英夫が登場するのが疑問だったのだろう。中井英夫が,政治家に比べれば学生運動に関係したいる人の問題意識のほうがどれほどすばらしいかと語ったくだりを覚えている。

文体

新刊,古本,週に10冊以上手に入れる生活がしばらく続いていると,いきおい,これまで読むことのなかった著者の本に接する割合が増えた。というものの,書かれたものを文体で眺めていくと,結局,矢作俊彦の文体が(良し悪しはまったくさておき),結局,馴染むのだということを確認する。

寝る前に『フィルムノワール/黒色影片』を読み直しているのだけれど,やっぱりこんな小説家は他にいないなと感慨一入。

近況

とりあえず,今月は記す回数を増やそうと思う。

鶴見俊輔の訃報に接する少し前から,通勤途中に鶴見俊輔の対談集を読んでいた。こんな時期だからなおさらに読み直すということかもしれない。亡くなってからようやく,中井英夫経由で鶴見俊輔を知ったことが,それはそれで幸せだったのだと感じる。

鶴見俊輔は筋金入の不良だったというところから,矢作俊彦を視野に入れたもののみかたをしてみる。もちろんそこには中井英夫もいる。

「治らない病気」と「治せない病気」

かなり前に書きとめたことかも知れないが,このところよく目にするので,改めて。

20世紀の終わりごろ,仕事の関係でターミナルケア,ホスピス,在宅医療に携わる(めざす)医師,看護師,薬剤師などから話を聞く機会に恵まれた。出張にからめて取材を企画したこともあり,鹿児島から福島あたりまで200人以上とじかに会ったり,電話やメール,ファクシミリでやりとりした。

ここでは医師の話になるのだけれど,当時,とても気になったのは,医師が末期がん患者に対して「治らない」と容易く客観化してしまう思考だった。つまり「医学的にあなたは治りません」と(そんな直接的な言葉ではないにせよ)突き放してしまうように感じた。それが,ターミナルケア,ホスピスなどに携わる医師であれば,なおさらに。

そこで若かった私は嫌味ったらしく尋ねたものだ。「末期がんは先生にとっては『治らない病気』なのでしょうか,それとも『治せない』病気なのでしょうか?」と。

はっきり「治せない病気」だと言葉にされた医師は思いつくかぎりだけれど3人しかいなかった。

まあ,「治らない」か「治せない」かは大した差じゃないといわれたことも少なくないけれど,にもかかわらず,「治せない病気」というところから始まることだってあるんじゃないかと,私は思った。

看護師の場合,初手から「治せる」という,まるで人を操作するような感覚の埒外にいるから,「治せないけれども,できることがあります」と,平気で言葉にした。ところが医師は「治せない」と表現することに,それはおかしいくらい躊躇いをみせるのだ。

その後,若い医師のなかで,「治せない」ところからスタートするといった文章が表されるようになり,少しは風通しがよくなったのだろうかと見回しても,それほど変わりないように思う。それはたぶん,「治せないにもかかわらず,その人に対して何がしかの操作はできる」という認知行動療法的思考が,間隙を埋めてしまったからではないかと,歳をとっても結局,穿った見方から離れることができない。

リブロ

昨日は仕事の帰りに家内と待ち合わせ,池袋西武へ出かけた。リブロ池袋本店が閉店するのだ。

今から30年くらい前,西武百貨店の11階だかにあったリブロの前身に出かけたのは,ニューアカに肩まで漬かった友人に連れられてのことだったと思う。フロアの中ほどに段差があって,その前あたりでそれ系のフェアが開催されていた記憶がある。

それは,八重洲ブックセンターの文庫売り場に少し似ていた。

結局,当時のリブロ(の前身)の印象が強い。その後,フロアを代え,セゾン美術館の下に落ち着いたのは20年くらい前なのだろうか。当初は2フロアだったように思う。その後,奥に専門書が移転したあたりから,だんだんと足が遠のいた。

当時は大泉学園に住んでいたので,帰りに寄りやすかったのだけれど,西武新宿線界隈に引っ越すと,リブロは遠かった。それよりも東武百貨店の旭屋書店のほうが都合がよい。目白よりの改札を抜け,高野フルーツパーラーの奥のエレベータで直行,1フロアで品揃えが整っていたころの旭屋書店に,たぶんリブロは苦戦したのではないだろうか。

ジュンク堂書店ができてから,西口の芳林堂書店が閉店し,東口の新栄堂書店はサンシャインシティ内に移転,パルコにあった三省堂書店も西武百貨店に移転した。パルコブックセンターも今はない。

そんなことがあったなかで,リブロはいきおいジュンク堂への抜け道のような位置に収まってしまった。

セゾン美術館が閉まったときのほうが,実のところ,何がしかの感慨が湧いたことを思い出す。

WAVEがなくなり,セゾン美術館がなくなり,リブロがなくなった。ヴァージンメガストアもなくなり,芳林堂もなくなり,新栄堂もなくなった。その間,西口の古本屋はどれだけ減っただろう。

池袋に思い入れがあったことなど一度もないはずだ。けれども,思い出さなければ消えてしまいそうな手がかりの断絶,ただそのことに少し感傷的になる。

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