大塚英志

大塚英志編『「私」であるための憲法前文』(角川書店)の解説にはこのようなくだりがある。

「ことばを交すことを放棄したアメリカの態度や,あるいはそれこそ一切のことばを尽くすことなくアメリカを支持した日本という『国家』の姿を見る限り,そ して実際に始まった戦争という現実を前にしてしまった今,ぼくたちは『ことば』の無力さを感じ打ちひしがれた気持ちを抱いてしまいがちだ。ヨーロッパでも アメリカでも反戦の声は上がったが戦争を阻止できなかった。この国で反戦運動がもう一つ形にならないのはのは,声を上げることの無意味さや無力さの中に諦 念する人々が少なくないからだとぼくは感じる。けれども同時に,多くの人々の胸のうちに今もなおあるのは,しかしそれでも話し合うことで何とかならなかっ たのか,という思いのはずだ。

何とかならないから力を行使したのだ,というアメリカの論理に対し,しかし,にも拘わらず,やはりことばを尽くすという選択はあったはずだというやり切れない感情をぼくもまた抱いている。だからこそ,ぼくは,私たちがアメリカのイラク攻撃をただニュース映像で見るしかない状況下で,それでも多くの人が秘かに感じているはずの『やはりことばを尽くすべきだった』という根源的ともいえる『ことば』への信頼をこそぼくたちの他者への態度の出発点にすべきだと考える。」

同書,p.387-388.

大塚英志

読み始めて数ページ。ものごとの考え方について,かなり影響を受けていることがわかった。

「何より,9・11以降,この国では他人の理念を嘲笑い,足蹴にし,執拗なまでに攻撃するという態度に慣れ親しみすぎている。

(中略)

イラク戦争の後,小泉純一郎首相(当時)は,イラク攻撃の根拠だった大量破壊兵器が発見されなかったことに対し,国会で『フセイン大統領が見つからなかったからといって,フセイン大統領がいなかったことにはならない。大量破壊兵器が見つからなかったからといって,なかったことにはならない』というロジックで答弁した。その詭弁もさることながら,この答弁に議場から笑い声が起きたことをぼくは絶望的な記憶として覚えている。小泉の詭弁を愚かと嗤うのではなく,いわば気の利いたユーモアとして国会議員たちが『嗤った』のだ。イラク戦争(中略)を始める根拠を欠いていたことをこの国の政治家が『哄笑』でやり過ごした時点から,すべてを嘲笑うこの国の今が始まった,といえる。

シリアでの人質事件の折,ネットに『九条を支持する人間は直接交渉に行って話し合ってみろ』という意味の書き込みがWebにあったが,そもそも,イスラム社会と『話し合える』回路を自ら閉ざしてきたのも9・11以降のこの国の選択だった。

(中略)

哄笑,嘲笑,沈黙。
それらは,全て,人が人とことばを介し,対立し,交渉し,合意を形成して行く積み重ねの放棄だ。だから,あの時,川口やぼくら原告がこの裁判を通して試みたのは,この,ことばによる対話をあきらめない,ということだった。本文でも強調したことだが,この裁判で川口たちが中心となって行なったのは,裁判所に向かって真面目に対話を求める,ことばで説得する,という一点だった。

(中略)

実を言えば,ぼくもまたデモはそれだけでは無力だと思う。デモの形として直接の『効力』があるのは,相手を傷つけ絶望させるヘイトスピーチだけだ。有効なのは,対話すべき相手との対話による合意形成だ。叫ぶこと,論じることだけでは無意味だ。」

川口創・大塚英志:今,改めて「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む,p.24-27,星海社新書,2015.

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