連休

自分で蒔いた種とはいえ,去年の連休の記憶,一日24時間では足りないくらいの,それも自分がもっていない知識を用いなければならない仕事を目の前に,さまざまな人の手助けで,まったく何とか乗り切った記憶がいまだ鮮明に残っている。

それに比べると今年は平穏に過ぎた。

某日 諸々の手続きのため,お寺に出かけ,その帰りにららぽーと船橋に寄った。私は隣の建物のブックオフで本を物色したものの,このところ本当にでかいブックオフほど,めぼしい本が見当たらない。半村良の文庫を1冊だけ買ってららぽーとで待ち合わせた家内と帰ってきた。

某日 久喜まで,知人から誘われた憲法フォークジャンボリー in 彩の国2015に出かけた。宇都宮に住んでいた頃,東北線で久喜あたりまでくると,ようやく東京が近くなった感じがしたものの,反対に都内から向かうと微妙な遠さだ。池袋から小一時間電車に揺られ,30年前の北越谷駅前のような光景の町に降りた。昼を過ぎていたので,食事を済ませてから会場に出かけようと店を物色しているうちに道に迷ってしまう。結局,ギャラリーショップに喫茶店を併設したところでやけにヘルシーな定食をとった。
コンサートは1組15分で弾き語りあり,朗読あり,発言あり,お笑いありの闇鍋状態。思っていたよりも聴き応えがあった。
17時くらいに会場を出て,15分くらい歩いてブックオフをのぞいたものの,ここでもたいした本はなかった。

某日 夕方まで会社に出て,夜は義父の家で一緒に食べた。90歳を過ぎた義父は20年前に初めて会ったときとほとんど変わっていないから驚く。

某日 千葉へ向かい,処分できなかった本・雑誌6箱を自宅へ送る手続きを済ませた。これで引渡し手続きさえ終えれば,印西にくることもほとんどなくなるだろう。夜は駒込で家内と待ち合わせてカレーを食べた。

リンゴォ・キッドの休日

矢作俊彦の『リンゴォ・キッドの休日』の著者近影について,撮影した横木安良夫がスタジオ・ボイスのインタビューで次のように語っている。(写真は後日アップ予定)。

――ちょっと話変えましょう。矢作さんの『リンゴォ・キッドの休日』(早川書房)の裏表紙の“著者近影”,横木さんですよね。なんか,イヤシクなれないヤクザみたいなの。
横木 彼はさあ,何か演じたいものがあるわけだよね。ああいうふうに撮ってほしいんだよ。『マイク・ハマーへ伝言』の写真はさ,なんか変なお坊っちゃんみたいに撮れてんでしょ?
――評判のやつ。老舗の若旦那みたいな。
横木 な。だからさ,俺そうじゃないように撮ったんだよ。
一度さ,矢作が二年前かな,すごいいいこと言ってたのね。つまりさ,日本の写真家は頭悪いって言うの。利巧なのは篠山と荒木だけだって。
いまの時代,写真と小説を比べると,写真のほうがメディアとしてはるかに凄い。小説なんてさ,書くのも読むのも時間かかるし,メンドくさいでしょ。ところが写真は,一人称で何でもできて,見るほうも一瞬で分かる,カメラマンは世の中全部,自分を中心に支配できちゃう。ところがそのことをカメラマンは意識していないっていうわけ。小説も写真も一緒だとか言うけど,実際カメラマンで「一緒だ」ってデカい顔してんのは篠山,荒木ぐらいだしね。それはカメラマンの自覚が足らないんだ! って矢作が言うわけ。

インタビュー:横木安良夫,永遠のイタチごっこを繰り返す美女とカメラマンの「心だより」,スタジオ・ボイス,Vol.95,p.73,1983.

下町探偵局

半村良の『下町探偵局 PART 1』(角川文庫版)を読み直していた。

もともと昭和50年代に,日曜日の夜,放送されていた「日曜名作座」(NHKラジオ)で森繁久弥と加藤道子の語りを聴いたのがはじまりだ。当時はまだ,半村良の小説を読んでいなかった。

「日曜名作座」を聴こうと思ったのは,なにかの拍子で江戸川乱歩の『黒蜥蜴』や『黄金仮面』が放送されることを知ったからだった。それ以来,取り上げる作品によっては続けて聴いた。

『下町探偵局』は数年後,まず潮文庫(全2巻)で刊行され,不思議なことにあまり間をおかず数か月後,今度は角川文庫からも,まったく同じ内容で2冊に分けて出た。当時,持っていたのはだから先に出た潮文庫版だ。解説は田中小実昌と都筑道夫,表紙は滝田ゆうが描いていた。

この小説はサブタイトルに“センチメンタル・オプ”を示されていたこともあり,「下町人情物」のくくりで語られがちだ。ところが今回,読み返してみたところ,半村良が描くのだからそのシニカルさは強烈で,どこが人情物なのだろう? という按配。『妖星伝』を書いた半村良だ。それを人情物でくくるのは初手からおかしいだろう。

もう一点,探偵事務所を舞台にしたにもかかわらず,小説の仕立ては後の「日常の謎」系ミステリに通じるものがある。当時,戸板康二が描いていたシリーズを,その出自とするならば,半村良は推理小説の舞台で,「日常の謎」系を描いてみせたといえるかもしれない。さらに,「日常の謎」系の出自を戸板康二ではなく,捕物帳に遡ってよいのかもしれないと思いもした。

人情物ということで,石森章太郎のマンガとつなげて考えてみた。『鉄面探偵ゲン』の後半と『下町探偵局』はどこか共通するように感じがしたし,『Knight andN day』『四次元半襖の下張り』あたりの「プレイコミック」連載作品と半村良作品とのつながりも。村雨良と半村良。30年以上,くらべてみたことがなかったこと自体おかしかったのだ。

ノロウイルス

「食欲がない」よりも「食欲が沸かない」という表現のほうが近いかもしれない。その後もFMラジオを聴きながら,からだの位置を変え,ときどき本やマンガを捲る。とはいえ,集中できないものだから,スッと文章が入ってくる本を探して,かえって落ち着かなくなってくる。

結局,『包丁人味平』の「第1回全日本ラーメン祭り編」をボーっと読んでいるうちに,少しずつ体調が回復してきた。夜にそうめんを数本食べたものの,あとは腸が動いている感じがしなかった。

発症後30時間を過ぎたあたりから,ようやく少し食欲が沸いてくる。中華粥を食べ,夜にはうどんが食べられるようになった。それでも腸が動いている感じはしない。

発症後50時間,朝もうどんで済ませると,仕事に向かった。

結局,しばらくは食物がうまく消化できず,ふつうに戻ったのは発症後,1週間を経てからだった。

ノロウイルス

母親は,味噌汁にまで入れて出すので,子どもの頃は牡蠣が嫌いだった。お椀のなかの牡蠣は白菜と相俟って,少し鉄の味がした。

その頃,父親は,牡蠣を酢醤油で食べていたような気がする。それは酢味噌で食べるさらし鯨と同じく,どうにもふつうの食べ物とは思えなかった。特殊な郷土料理か何かのように感じたものだ。

夕飯にグラタンが出てくるようになったのは1970年代の半ばだっただろうか。そこには牡蠣とホウレン草,玉葱が入っていた。グラタンに入った牡蠣は旨かった。そのころになってようやく私は牡蠣が食られべるようになった。

ニューヨークのグランド・セントラルで,はじめてオイスター・バァに入ったのは10年ほど前のことだ。図書館でネット検索用のプラグを差し替えてメールをチェックに行った帰りだったと思う。携えていったパールホワイトのPrius AirをiBookを間違えられた記憶ばかり鮮明で,旨かったかどうかは記憶にない。数年後,丸の内のオイスター・バァにも出かけたものの,やはり飲んだワインの記憶が勝っている。

40歳を越えた頃から,牡蠣フライをよく食べるようになった。ただ,外食のときに食べるとなると,両手で足りるくらいの回数かもしれない。だから,その日,素人料理に毛が生えた程度のその店でなぜ,牡蠣が入ったミックスフライ定食を頼んだのか,その理由が自分でわからない。

それでも24時間以上の間,変調をきたすことはなかった。それが食後40時間を経た早朝4時。突然に腹痛と嘔気が襲ってきた。寝ていても自覚するほどのそれは強烈だった。尾篭な内容になってしまうが,トイレに駆け込むと数分後には排泄物はほとんど水様のものと化した。かならずしも身体が丈夫とはいえない私だけれど,あのような状態に陥ったのははじめてのことだった。一度,寝床に戻ったものの,しばらくすると強烈な嘔気が戻ってきた。面倒な気持ちが先立ち,吐くのは何とかできないかとトイレに座り込んだもののかなうことはなく数分間を堪えた。

子どもの頃,自家中毒に罹った(というか自分で体内に毒を生み出すのだから,自家中毒を起こしという表現が適切かもしれない)。数十年振りに当時を思い出すかのようなつらさだった。

眠りは浅く,身の置きどころはない。枕を高くしたり,家具を台にして足をあげたりしてもそれを楽に感じる時間はしばらくの間だけ。今度は子どもの頃,熱発したときの記憶が蘇ってきた。

自制心のような何かだけは残っている。あれだけ出したのだから体内に水分が足りないに違いない。キッチンへ行き温湯に水を加えて戻ってきたものの,体内に入れる気分ではない。枕元のラジオをかけるとFMではミサ曲が流れている。こんなとき,ミサ曲でも身の置きどころないつらさを取り除くことはできない。寝ては覚め,覚めては寝の時間が途切れ途切れに重なっていく。

食後50時間あたりまでは,回復の兆しはなく,同じような時間が続いた。

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