ディアスポリス

すぎむらしんいちの『ディアスポリス』の10巻くらいまでは毎号、刊行時に手に入れ楽しみに読んでいた。矢作俊彦の『東京カウボーイ』にこの設定があればもう少しまとまった物語になったのではないかと思ったりもした。

10巻をまとめて売ってしまってから,連載を読むこともなくなったのだけれど,売ってしまった理由も読まなくなった理由ももはや覚えていない。

昨日,田無の新古書店で13~15巻が置いてあったので購入した。印西への行きの電車で読みがらきた。すっかり忘れていた設定を思い出し,終わりも良い感じだった。

夕方から中島らもの文庫本をもって駅前のリラクゼーションスパに出掛けて,読みながら一時間ほど。帰りに夕飯を買って帰ってきた。家を片付けてしばらくたった。

1Q84

値段で読む決心のつくことが,ときどきある。古本屋で見つけなければ読みはしない本のことだ。

文庫1冊50円は安いと思ったものの,単行本1冊が分冊になっているのだから,108円で売られている単行本を買ったほうがさらに安いと気づいたのは昨日のこと。4年も経てばベストセラーは108円棚に置かれているのだ。だから50円で購入したBOOK1(前編)は結局,半分過ぎたところまで読んで,その後は単行本に以降してしまった。

今のところ,10年さばをよんで1994年の感じが伝わってくる。なんだか村上龍の小説っぽくもある。まあ,おおむねそんな感じ。

1984年から,いつの間にか30年前も経っている。1984年の30年前といえば1954年。敗戦から10年も経っていない。この調子だと,明治どころか昭和さえ,そろそろ時代劇の範疇に含まれるのかもしれない。

1Q84

印西の新古書店で村上春樹の『1Q84』(1,文庫本)が50円になっていたので購入,ぺらぺらと捲っている。まだ1/3ほどしか読んでいないけれど,昔,『ダンス・ダンス・ダンス』を読んだときに似たOut of dateな感じをもった。この30年で私たちの生活はまがいなりにも豊かになったことがどこか抜け落ちているのかもしれない。初手から,豊かさと徒歩競争などしていないといわれそうだけれど,いや,いつも競争している感じがした。

私たちの世代にとって,というか私にとってロックがピークを打ったのは1982年のことだ。1983年の過渡期を経て1984年にすっかり様相を変えてしまった。「Another Game」は,1984年の変化を書き留めておきたくて話をつくりはじめた。結局,まったく出来上がっていないアマチュアがプロに言えた義理じゃないとは思うものの,リック・ウェイクマンの1984っぽいデボリューションという感じ。

ニューヨークからの帰りの飛行機で『海辺のカフカ』を読んだときにも何だか文句を書いた記憶がある。村上春樹のウィスキーネタは面白かったのだけれど。

やらせ

大野更紗と開沼博の『1984 フクシマに生まれて』を電車のなかで捲っていた。思い出したのが「やらせ」という言葉が出てきたときの救いようのようなものだった。

「やらせ」にはいくつもの意味があるのだろうけれど,私にとって救いだったのは,「やらせ」であることを笑いに置き換えていく所作であって,それ以外のさまざまについてまわる言説はまったくの埒外だ。たとえるならそれは,100個のうそで1つの真実を紛らわせてしまうような衒いを伴った吐露で,1から10まで真実で固めようとして2つや3つで躓くのとは似ても似つかない。

この本に,ただ,そうした「やらせ」の風通しのよさを感じなかったのがかなり印象的だったので,読みながらその欠落を補っていた。

古本フリマ

日曜日の古本フリマに参加してから,本をめぐる記憶があれこれ蘇ってきた。とともに,これまで古本屋に本を売った回数数知れず,本を手放すこととその対価のバランスにはそれなりに目が向いたものの,その先が見えなかった。ネットオークションで本を売ったこともある。自分が付けた値の数倍で買い求められることが面白かったものの,でも,それはどこかで何かが違うような気がしていたのも事実だ。

自分でつけた値で本が購入されていく手ごたえは,古本屋に売るのとも,オークションに出すのとも違うことに気づいた。そして,それは面白い手ごたえだということにも。

これは,商売ではないからできる愉しみなのだと思う。

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