バンドホテルのウイリー沖山

横浜山手の「バンドホテル」には一度だけ宿泊したことがある。昔日を偲ばせるものはほとんどなく,あのとき摂ったモーニングほどコストパフォーマンスにかなわないものは,あとにも先にもない。笑顔を絶やさない昨今のホテルマンに比べると,慇懃無礼なだけ新鮮に感じられたフロントマンの態度。
無国籍というよりは,アウト・オブ・デイトなようすは好き嫌いは分かれるだろうが,経験しがたいものではあった。

最上階の「シェルルーム」は続いていた。
フロントで,ウイリー沖山のポートレイトをあしらったチラシを手にした。港のホテルで毎日2ステージ,週末は3ステージを勤め上げる支配人。考えただけでも,1ダースの小説のアイディアが思い浮かぶというものだ。こちらもコストパフォーマンスと合致せず,その扉をくぐらなかったが,幸運にも(?)6階をリザーブしたわれわれは,最後はヨーデルが響きわたる,夜半までつづく彼のステージを堪能することになった。

ライブハウス「シェルガーデン」は,バンドホテルの右隣にあり,解凍前のP-MODELは,たびたびライブを行なった。  “different≠another”が演奏された日は,車寄せを隔てて,「シェルルーム」と「シェルガーデン」でヨーデル合戦が繰り広げられていたことになる。

われわれが宿泊して,数年後,バンドホテルはその幕を閉じた。

サックス?

ビデオにもなったFUJI・AVライブは雨の日だった。この日もリハーサルが押したのか,開場後,なかなかスタートしない。

後に,シリーズ動員記録を更新したこの日の会場は立錐の余地もないほど。毎度のことに慣れているとはいえ,湿気と人いきれでイライラは加速する。一緒にいった友人たちと交わす言葉もなくなった。そのうち,冠ライブにありがちな招待客に矛先が向かうのも仕方ない。ふと,片隅からこんなやりとりが聞こえてきたのだ。

「P-MODELってどんな曲やるの?」
女の声だった。
「サックスがいてね,オシャレでメロディアスな感じだったと思うよ。もうすぐ始まる」
男の声が答える。

何? サックス? オシャレでメロディアス??
こ奴ら,聞いたことないな。聞いて驚け!
横にいた友人にもその言葉が聞こえたのか目を合わすと,思わずニヤリとした。

ほら,“フォトグラファー”ACT3が聞こえてきた。
間髪あけず,後ろからグングン押される。前へと突進する。悲鳴が聞こえたような気がしたが,もう,そんなことは気にならない。
“FROZEN BEACH”のリフを弾く,ことぶきの姿を目にしてからは,もう後ろを振り向くことはなかった。

ジュニアがついたころのカート・ヴォネガット

ジュニアがついたころのカート・ヴォネガットの,というより彼の処女長編『プレイヤー・ピアノ』に次のような一節がある。

……だれかが不適応のままでいなくちゃいけない。だれかこの社会になじめないものがいて,人間がいまどこにいるか,どこへ行こうとしているかに,疑問をぶつけなくちゃいけない。

はじめて読んだとき,P-MODELの立ち位置はここだなと思った。それは気絶していようがいまいが,天秤から降りようが変わりない。
でなければ,誰が胡麻を舐めながら,ティッシュをテーブルに逆さにつけるような,日常の発明に勤しむなんてことできるだろうか。

社会になじんだまま,疑問をぶつけるような高飛車なものいいが流行っているときは,やけに新鮮に感じる。

竹内敏晴氏の「殺されてたまるか」,辻潤の「私は世間を相手に闘おうと思うほど,自分をばかにしてはいない」(このフレーズ,確認するために10年振りに辻潤全集をひろげたが,見当たらなかった),辻潤はややズレるが(これについては,吉行淳之介の興味深いエッセイがある),いずれも共通する思いで記憶している。

レゲエとフィリップ・グラス

80年代のライブハウスでは,フロアの明りが落ちるまでの間,なぜかレゲエがかかっていることが多かった。

整理番号2桁で突入したはいいものの,気の抜けた(と感じられた)レゲエのリズムに拍子抜けたことも,しばしばだ。
半券を紙コップ1杯のビールに換えだらだら飲み干すと,すでに30分たっている。

レゲエが止み,フロアの明りが落ちる。すると聞こえてくるのはフィリップ・グラスの“フォトグラファー”ACT3。登りきったところで地響きのようなドラムマシンの音。P-MODELの登場だ。アドレナリンが沸騰してしまうこの光景に,何度立ち会えただろう。

今でも,“フォトグラファー”を聴くと,身の置きどころがなくなってしまう。90年早々だったろうか,CDを買ってしまった。

リハーサルに熱が入ってかどうか,開場は遅れ,開演30分遅れもめずらしくなかったP-MODELのライブでは,一度,消えた客電が再び灯ることがあった。もちろん“フォトグラファー”は鳴り止んでいる。萎えた気持を奮い立たせるために,1曲目がはじまるやいなやステージめがけて突進した。

中野ZEROホール

先日,子どもの発表会のため,久しぶりに中野ZEROホールへ行った。前回はP-MODELのライブだった。だったといっても1987年のこと。あのとき聞いた“FLOOR”~“POTPOURRI (ポプリ)”~「いまわし電話」は,これまで体験したライブのなかで,譬えようがない音圧だった。

次点は,1990年(89年か?)『亀盤』を出した後の渋谷クアトロでのあぶらだこの「焦げた雲」。95年(これも不確か),彩の国で体験したスティーブ・ライヒの「18ミュージシャンズ」。いずれも甲乙つけがたい。

その日を境に荒木が引退(うわさには,新潟で石油掘りの跡継ぎのためと聞いたが,ホントだろうか)。以後,読売ホールでの鼓笛隊,野音でのシャレP-MODELまで,それから今日まで,あの筆舌に尽くしがたいドラミングを我々は失ってしまった。

86年から87年2月までの1年あまり,P-MODELは,another P-MODELといってもよいほど音の感触がそれまでとは違った。音の固まりのなかで,「サンパリーツ」のバスドラ,“KARKADOR”のハイハット,それらはひとつの要素かもしれないが,あまりにも大きな要素だった。

あの日,「サラウンド」と称して,耳をつんざく甲高い音が渦巻いたが,何と,今回も同じように割れた高音が鳴った。あれは,ホールの特色だったのだろうか。

Top