彼はテレポートできたのか

買ったまま,読み終えない本の代名詞が『薔薇の名前』であることは,われわれの間では別段,恥ずべきことでなかった。しかし……。

奇妙な読書体験がある。実に面白いストーリーなのに,あるところまでくると,どうにも意味が理解できなくなる。4度読み返して,4度とも同じ箇所から,先へすすめなかった。翻訳小説,それも悪名高きサンリオSF文庫だったので,訳のためだと思っていた。

その小説は密かに改訂がすすめられており,著者の死後,改訂版が新たに出版された。
今度はすっきりと読み終えた。読み終えたはいいが,どうも同じ小説には思えない。度重なる頓挫の後,初版を今一度読み返そうとするほどの勤勉さは持ち合わせていなかった。以後,初版は実家で埃をかぶったまま時を重ねている。謎は何一つ解決していない。

問題の箇所は,主人公が,その後どうなるか定かでないまま,テレポートして遥かな地をめざす,そのあとだ。まるで自分がジャーゴン失語に陥ってしまったかのように,意味が辿れなくなる。

今になってみると,改訂版はストーリーすら記憶の埒外にある。初版の圧倒的な読書体験には,まっとうなストーリーでは太刀打ちできないということだろうか。
初版のタイトルを『テレポートされざる者』という。著者は,フィリップ・K・ディックだ。

ハイ・フィデリティ

昌己とは,読んだ小説のことを話題にした覚えは一度しかない。
まったくの偶然で別々に手にし,同じ感想をもった。数年前,『ハイ・フィデリティ』を読み終えたあとのことだ。
漏れ出た言葉はまったく同じだった。他人事とは思えない話だが,2つだけ気に入らないところがある。恋愛のエピソードはいらないというのが,まずひとつ。もうひとつは,もうひと回りだけ,新しいバンドを扱ってほしかった。

「ニューウェイヴ好きで,恋愛なしだったら,座右の書になるぞ」
「そんな話,書けるとしたら大槻あたりかな」

レコード店の紙袋を後生大事に抱えている男や,最高のカセットテープづくりは励む姿は,読んでいると情けなさを通り越して,切なくなってくるほどだった。
まさに,楽器少年にならなかったロックファンのありうるべき姿が,そこにはあった。

喬史がポリスのブートレッグを買い,「音が悪い」という理由で返品に向かうのに付き合わされた経験を持つ身としては(あげくに柄の悪い店員に「お友だち,ブートレッグが,どんなものか知ってるんですか」と吐き捨てられたのだ),まるで,あれは,この小説のなかのワンシーンではなかったかと錯綜してしまった。

喬史は,その後,「あの,音の悪さがいいんだよな」と,信じられない台詞を吐いた。

キャバレー大風呂敷の嘆き

ドミニク・ノゲーズは,1916年2月5日,チューリッヒ,キャバレー・ヴォルテールのオープニング・パーティでロシア民謡とロシア舞踏を披露したのはレーニンとその友人だと仮説をたて,丹念に検証している。(『レーニン・ダダ』)
著者は,ロシア革命までも,ダダであるとして考察をすすめる。もちろん,南米に亡命したケンタッキーフライドチキンの親爺が登場するのは,しばらく後のことだ。

それから75年。六本木で開催された「キャバレー大風呂敷」に参加したわれわれ4人は,革命を起したわけでもなければ,メタルパーカッションを連打することもなかった。1人の友人の落胆を横目に,地下鉄の始発を待つしかなかった。

はじまりは,事情通と称してはばからない知人の怪しい情報だった。
「今度,六本木でやる『キャバレー大風呂敷』に平沢進と戸川純がでるらしい」
「平沢を見たいな」そういった徹は,誰が見ても戸川純ファンだと察せられた。それでも,これまで頑なに,その事実を認めようとしなかった。「上野なにがしのファンなんだ」「高見知佳の曲がいいだろう」

ライブにいけばいいものを,決して行こうとはせず,ソロになった平沢とコラボレートすることが多くなったのを機に,平沢ソロコンサートへ足繁く通った。徹の落胆は,すでに渋谷公会堂で起こっていた。

さて,当日。ケラが登場した。徹の期待は高まった。ヒカシューが登場した。次だろうか。ジョン・キングが登場した。Adiが登場した。私と昌己は歓喜した。金子飛鳥がデヴィッド・クロスみたいだ。渡辺等はとんでもないベースを弾いた。

ストリップがあり,パンツ一枚,腕力だけで足を浮かせたままテーブルの隅から隅まで動き回るショーには思わず「うちでやったら,親が驚くだろうな」と頷き合った。そして最後。事情通の事情が,自称だったことを確認したのは真夜中だった。

「チケットぴあ」の天使

「チケットぴあ」取り扱い店が,雨後のタケノコのように林立しはじめたころ,百歩譲っても,日本のロックを聞くことはないだろうと思えるパートのおばさんを通して,チケットを購入しなければならないことがあった。
彼女たちは,一度発券したのち,キャンセルは効かないことだけを強迫的に伝達されていたのか,オーダー後に確認すること,税務署並の執拗さに辟易とさせられた。

どんなところにも怠慢な人間はいる。

今は亡き,渋谷LIVE INNでのP-MODELのライブチケットを入手するために出かけた先にいたのがそんなパートのおばさんだった。
そ奴は,発券前の確認後,ていねいなことに1日前倒した日のチケットを寄越した。家に帰って気付いたが後の祭り。前日のライブは筋肉少女帯だった。

ひまだったので8階(だったと思う)にあったそのライブハウスまで足を運んだ。

その日の筋肉少女帯のライブは2部構成。第一部はケラ抜きの空手バカボン=「空手アホボン」が登場。冒頭の「アホボンと戦慄」。クリムゾンの「スターレス」のメロトロンのフレーズに,歌詞をつけて歌ったもの。情けないが,あのフレーズを聞くと条件反射のようにグッときてしまった。

第二部は通常のライブで,すでに「いくじなし」は圧倒的なインパクトだった。

もちろん翌日のP-MODELのライブにも出かけた。

その後,後楽園ホールで「子どもたちのCity」を見に行ったときは,反対にP-MODEL,筋肉少女帯という登場順だった。

筋肉少女帯との出会いは,パートのおばさんの怠慢さのお陰だということになる。石野卓球風にいうならば,あのおばさんは天使だったのかも知れない。

バンドホテルのウイリー沖山

横浜山手の「バンドホテル」には一度だけ宿泊したことがある。昔日を偲ばせるものはほとんどなく,あのとき摂ったモーニングほどコストパフォーマンスにかなわないものは,あとにも先にもない。笑顔を絶やさない昨今のホテルマンに比べると,慇懃無礼なだけ新鮮に感じられたフロントマンの態度。
無国籍というよりは,アウト・オブ・デイトなようすは好き嫌いは分かれるだろうが,経験しがたいものではあった。

最上階の「シェルルーム」は続いていた。
フロントで,ウイリー沖山のポートレイトをあしらったチラシを手にした。港のホテルで毎日2ステージ,週末は3ステージを勤め上げる支配人。考えただけでも,1ダースの小説のアイディアが思い浮かぶというものだ。こちらもコストパフォーマンスと合致せず,その扉をくぐらなかったが,幸運にも(?)6階をリザーブしたわれわれは,最後はヨーデルが響きわたる,夜半までつづく彼のステージを堪能することになった。

ライブハウス「シェルガーデン」は,バンドホテルの右隣にあり,解凍前のP-MODELは,たびたびライブを行なった。  “different≠another”が演奏された日は,車寄せを隔てて,「シェルルーム」と「シェルガーデン」でヨーデル合戦が繰り広げられていたことになる。

われわれが宿泊して,数年後,バンドホテルはその幕を閉じた。

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