キャバレー大風呂敷の嘆き

ドミニク・ノゲーズは,1916年2月5日,チューリッヒ,キャバレー・ヴォルテールのオープニング・パーティでロシア民謡とロシア舞踏を披露したのはレーニンとその友人だと仮説をたて,丹念に検証している。(『レーニン・ダダ』)
著者は,ロシア革命までも,ダダであるとして考察をすすめる。もちろん,南米に亡命したケンタッキーフライドチキンの親爺が登場するのは,しばらく後のことだ。

それから75年。六本木で開催された「キャバレー大風呂敷」に参加したわれわれ4人は,革命を起したわけでもなければ,メタルパーカッションを連打することもなかった。1人の友人の落胆を横目に,地下鉄の始発を待つしかなかった。

はじまりは,事情通と称してはばからない知人の怪しい情報だった。
「今度,六本木でやる『キャバレー大風呂敷』に平沢進と戸川純がでるらしい」
「平沢を見たいな」そういった徹は,誰が見ても戸川純ファンだと察せられた。それでも,これまで頑なに,その事実を認めようとしなかった。「上野なにがしのファンなんだ」「高見知佳の曲がいいだろう」

ライブにいけばいいものを,決して行こうとはせず,ソロになった平沢とコラボレートすることが多くなったのを機に,平沢ソロコンサートへ足繁く通った。徹の落胆は,すでに渋谷公会堂で起こっていた。

さて,当日。ケラが登場した。徹の期待は高まった。ヒカシューが登場した。次だろうか。ジョン・キングが登場した。Adiが登場した。私と昌己は歓喜した。金子飛鳥がデヴィッド・クロスみたいだ。渡辺等はとんでもないベースを弾いた。

ストリップがあり,パンツ一枚,腕力だけで足を浮かせたままテーブルの隅から隅まで動き回るショーには思わず「うちでやったら,親が驚くだろうな」と頷き合った。そして最後。事情通の事情が,自称だったことを確認したのは真夜中だった。

「チケットぴあ」の天使

「チケットぴあ」取り扱い店が,雨後のタケノコのように林立しはじめたころ,百歩譲っても,日本のロックを聞くことはないだろうと思えるパートのおばさんを通して,チケットを購入しなければならないことがあった。
彼女たちは,一度発券したのち,キャンセルは効かないことだけを強迫的に伝達されていたのか,オーダー後に確認すること,税務署並の執拗さに辟易とさせられた。

どんなところにも怠慢な人間はいる。

今は亡き,渋谷LIVE INNでのP-MODELのライブチケットを入手するために出かけた先にいたのがそんなパートのおばさんだった。
そ奴は,発券前の確認後,ていねいなことに1日前倒した日のチケットを寄越した。家に帰って気付いたが後の祭り。前日のライブは筋肉少女帯だった。

ひまだったので8階(だったと思う)にあったそのライブハウスまで足を運んだ。

その日の筋肉少女帯のライブは2部構成。第一部はケラ抜きの空手バカボン=「空手アホボン」が登場。冒頭の「アホボンと戦慄」。クリムゾンの「スターレス」のメロトロンのフレーズに,歌詞をつけて歌ったもの。情けないが,あのフレーズを聞くと条件反射のようにグッときてしまった。

第二部は通常のライブで,すでに「いくじなし」は圧倒的なインパクトだった。

もちろん翌日のP-MODELのライブにも出かけた。

その後,後楽園ホールで「子どもたちのCity」を見に行ったときは,反対にP-MODEL,筋肉少女帯という登場順だった。

筋肉少女帯との出会いは,パートのおばさんの怠慢さのお陰だということになる。石野卓球風にいうならば,あのおばさんは天使だったのかも知れない。

バンドホテルのウイリー沖山

横浜山手の「バンドホテル」には一度だけ宿泊したことがある。昔日を偲ばせるものはほとんどなく,あのとき摂ったモーニングほどコストパフォーマンスにかなわないものは,あとにも先にもない。笑顔を絶やさない昨今のホテルマンに比べると,慇懃無礼なだけ新鮮に感じられたフロントマンの態度。
無国籍というよりは,アウト・オブ・デイトなようすは好き嫌いは分かれるだろうが,経験しがたいものではあった。

最上階の「シェルルーム」は続いていた。
フロントで,ウイリー沖山のポートレイトをあしらったチラシを手にした。港のホテルで毎日2ステージ,週末は3ステージを勤め上げる支配人。考えただけでも,1ダースの小説のアイディアが思い浮かぶというものだ。こちらもコストパフォーマンスと合致せず,その扉をくぐらなかったが,幸運にも(?)6階をリザーブしたわれわれは,最後はヨーデルが響きわたる,夜半までつづく彼のステージを堪能することになった。

ライブハウス「シェルガーデン」は,バンドホテルの右隣にあり,解凍前のP-MODELは,たびたびライブを行なった。  “different≠another”が演奏された日は,車寄せを隔てて,「シェルルーム」と「シェルガーデン」でヨーデル合戦が繰り広げられていたことになる。

われわれが宿泊して,数年後,バンドホテルはその幕を閉じた。

サックス?

ビデオにもなったFUJI・AVライブは雨の日だった。この日もリハーサルが押したのか,開場後,なかなかスタートしない。

後に,シリーズ動員記録を更新したこの日の会場は立錐の余地もないほど。毎度のことに慣れているとはいえ,湿気と人いきれでイライラは加速する。一緒にいった友人たちと交わす言葉もなくなった。そのうち,冠ライブにありがちな招待客に矛先が向かうのも仕方ない。ふと,片隅からこんなやりとりが聞こえてきたのだ。

「P-MODELってどんな曲やるの?」
女の声だった。
「サックスがいてね,オシャレでメロディアスな感じだったと思うよ。もうすぐ始まる」
男の声が答える。

何? サックス? オシャレでメロディアス??
こ奴ら,聞いたことないな。聞いて驚け!
横にいた友人にもその言葉が聞こえたのか目を合わすと,思わずニヤリとした。

ほら,“フォトグラファー”ACT3が聞こえてきた。
間髪あけず,後ろからグングン押される。前へと突進する。悲鳴が聞こえたような気がしたが,もう,そんなことは気にならない。
“FROZEN BEACH”のリフを弾く,ことぶきの姿を目にしてからは,もう後ろを振り向くことはなかった。

ジュニアがついたころのカート・ヴォネガット

ジュニアがついたころのカート・ヴォネガットの,というより彼の処女長編『プレイヤー・ピアノ』に次のような一節がある。

……だれかが不適応のままでいなくちゃいけない。だれかこの社会になじめないものがいて,人間がいまどこにいるか,どこへ行こうとしているかに,疑問をぶつけなくちゃいけない。

はじめて読んだとき,P-MODELの立ち位置はここだなと思った。それは気絶していようがいまいが,天秤から降りようが変わりない。
でなければ,誰が胡麻を舐めながら,ティッシュをテーブルに逆さにつけるような,日常の発明に勤しむなんてことできるだろうか。

社会になじんだまま,疑問をぶつけるような高飛車なものいいが流行っているときは,やけに新鮮に感じる。

竹内敏晴氏の「殺されてたまるか」,辻潤の「私は世間を相手に闘おうと思うほど,自分をばかにしてはいない」(このフレーズ,確認するために10年振りに辻潤全集をひろげたが,見当たらなかった),辻潤はややズレるが(これについては,吉行淳之介の興味深いエッセイがある),いずれも共通する思いで記憶している。

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