ジュニアがついたころのカート・ヴォネガットの,というより彼の処女長編『プレイヤー・ピアノ』に次のような一節がある。
……だれかが不適応のままでいなくちゃいけない。だれかこの社会になじめないものがいて,人間がいまどこにいるか,どこへ行こうとしているかに,疑問をぶつけなくちゃいけない。
はじめて読んだとき,P-MODELの立ち位置はここだなと思った。それは気絶していようがいまいが,天秤から降りようが変わりない。
でなければ,誰が胡麻を舐めながら,ティッシュをテーブルに逆さにつけるような,日常の発明に勤しむなんてことできるだろうか。
社会になじんだまま,疑問をぶつけるような高飛車なものいいが流行っているときは,やけに新鮮に感じる。
竹内敏晴氏の「殺されてたまるか」,辻潤の「私は世間を相手に闘おうと思うほど,自分をばかにしてはいない」(このフレーズ,確認するために10年振りに辻潤全集をひろげたが,見当たらなかった),辻潤はややズレるが(これについては,吉行淳之介の興味深いエッセイがある),いずれも共通する思いで記憶している。