特選

休日午後の吉祥寺はおそろしい人出。この感触だと,家内と遅めの昼食をとる予定で考えていた喫茶店はどこも隊列を組んでいるだろう。混んでいないことを祈りながらシャワーパーティカフェへ。なんとか席を確保できた。サバサンドセットで昼食。

丸井で落ち合うことにして家内とわかれ,古本屋を覘く。バサラブックスとよみたやで文庫を数冊購入。ルーエで『ケアの倫理とエンパワメント』を購入。文庫の棚を見ていると,この前,伊野尾書店に並んでいた小松左京の文庫など徳間書店が特選シリーズをスタートさせたラインナップだったことがわかった。面白いラインナップだし,絶版,読みたくて古本で入手するにもかなり高価になってしまっているタイトルも入っている。

1か月くらい前,SNSで徳間文庫絡みの投稿をいくつか目にしたが,これだったのか。徳間書店というのはなんだか不思議な出版社だ。

武蔵浦和

雨。昼にオアゾで校正を渡した後,打ち合わせのために武蔵浦和まで出る。30数年ぶりに降りた駅は初めて降りた駅のような印象。当時の武蔵野線の駅前に,何らかの発展を期待することなど想像できなかった。まったく別の駅と駅前がひろがる。

だいたいが,武蔵浦和駅というのは,ただ,新越谷駅から浦和や大宮に行くときの乗り換え駅のようなもので,東横線から南武線に乗り換える武蔵小杉駅に似た印象だ。武蔵小杉もまあ様変わりしたが。

改札で元同僚と落ち合い,打ち合わせ場所に出向き3時間弱。雨は強くなっている。にぎやかな駅前なら揃っているチェーン店はだいたいあって,そのひとつに入り1時間ほど打ち合わせの続き。それにしても代替可能な場ばかりがあちこちにあるものだ。ひばりが丘でも茗荷谷でも対してほとんど変わりない。

18時前に快速に乗って赤羽で乗り換え,上野駅に着いたのは18時過ぎ。30分はかかっていない。時間に換算すると,山手線を半周するくらいにもかかわらず,距離はからだにこたえる。御徒町まで行き,ゲラをもらい受けて,20時過ぎに帰宅。

武蔵浦和ねえ。町の成り立ちがなんだかおかしな方向に向かっていることを感じてしまう。

Windows11

事務所用に中古のWindows11マシンを頼んだ。夕方に到着したのでセッティングをはじめる。

梱包を解き,電源コードを差し込み,KVMに繋いで完了。複合機のドライバー一式をダウンロードして,wifiをつなぐ。複数年で購入したウイルスソフトは5台までセッティングできるので,これを設定。Thunderbirdをダウンロードしてメールアカウントをつくる。よいのかどうかわからないがonedriveとの設定をスルーして使えるのが便利だ。Office2019が入って36,000円というのは助かる。

セッティングをしているうちに夜に入ってしまったが,反応は当然よい。mouseのminiは再び自宅用にする。

PC-Faxの設定もしたので,ファクシミリはパソコンで確認するかたちになる。

Windows11については,10からどう変わったのかよくわからないが,ふつうに使えるという感じ。

徒歩

ある種の打ち合わせをする必要が少しずつなくなってきた。いきおい,電車で移動する回数は減る。週のうち半分以上は徒歩圏で用事が事足りる。

そんなものだから,夕飯用にお弁当を頼まれると池袋あたりまで出るのが遠出のぶるいにはいってしまう。机の上で書いたり処理したりする必要のある仕事が増えているということで,しかたあるまい。

mouseのミニは仕事をするには非力なため,とりあえず中古のデスクトップを1台購入した。金曜日に届く予定というので,週末はそのセッティングで時間がとられてしまいそうだ。

胡蝶蘭

事務所に胡蝶蘭が届いた。私には不相応だけれども,会社の門出に期待を込めてという意味だろう。銀行口座開設の面談をwebで。まあ,そのような時代なのだ。新会社については,準備が整っていないので,SNS等で報告してこなかったものの,胡蝶蘭を撮影してまずはFaceBookに挨拶をアップした。反応があったのでホッとした。

また島田一男を捲りはじめている。『野獣の夜』(徳間文庫)の解説が面白い。加納一朗によるもので,このような箇所がある。

銀座のまんなかのMデパートの地下三階に,十数社が同居して云々,というのを,奇妙に感じられる向きも多いと思われるので,島田氏に代わって説明すると,このMデパートは松坂屋である。当時,建物はいまの半分しかなく,正面に向って左半分は終戦後駐留軍専用の,木造のダンスホールであった。デパートに売る品物がなく,上階はほとんど閉鎖状態だったころである。この木造部分の地下(作品では地下三階)は,うすぐらい廊下で,そこに添って本当に小部屋ごとに小さな事業所が入っていた。その一つに「大陸情報通信社」というのがあった。六畳にもみたないせまい部屋に,六〇ワットぐらいの電球が一つ下がり,机が三つもあればいっぱいという部屋である。部屋は新聞やら書類で埋まり,廊下にもなにやらいっぱい置いてある。

ここは終戦時,東京通信局長だった島田氏が同僚と設立した,満洲から引き揚げてくる新聞人たちの連絡と情報交換の場であった。(中略)

この地下のうすぐらい小部屋がいつまで存続したか記憶はあいまいだが,間もなく銀座が次第に復興するにつれ,ダンスホールは日本人も踊れるようになり,やがて閉鎖してあとは松坂屋シネマという映画館になった。雨後の筍のように映画館が増えはじめた時代で,このころ地下の間借人たちも整理されたのであろう。

同書,p.315-316

文庫の解説に,この手の文章を見つけることがときどきある。

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