Vaccine

前日にLINEで喬史や裕一,昌己などとCOVID-19ワクチンの話。高齢者になると副反応が軽くて済むらしいなどというやりとりで,私は高齢者フラグ立ってもいいので軽いほうがよい,と。仕事で行き来している人は週末に接種すると副反応が重く,明日,仕事だという状況では軽い,など,都市伝説のような体験を紹介される。

で,15時過ぎからワクチン接種。SNSで混乱が話題になった以前のインフルエンザワクチン接種に比べると,粛々とすすむ。15時半には終わり,15分ほど休憩をとった後,接種フロアを出る。出る際に「体調だいじょうぶですか」と尋ねてきた男性看護師の深刻そうな声の調子にびっくりした。

早めに19時過ぎで仕事を終える。新井薬師前駅に寄り,文林堂書店を覘こうかと思ったところ休みだった。中井まで戻り,事務所で本を確認。昨日,STORESで丸尾末広の単行本,今日は眉村卓の文庫本が売れた。探していた文庫本は見当たらず,まだ事務所にもってきていないらしい。帰宅し,夕飯をとり,発送の準備など。

ワクチン接種後の副反応はいまのところ,接種箇所の軽い痛み以外はない。「副作用」ではなく「副反応」。今回で一気に一般化したな,「副反応」。高齢者フラグでもなんでも,軽いにこしたことはない。

五輪絡みで,小山田圭吾の過去のインタビュー記事がSNSで話題に。五輪に絡め取られると,厄介なことになるのは目に見えているのだから受けなければいいのに,と思う。これは90年代の問題というよりも,80年代から続いている問題もしくは抱えこんでいるなにものか,だろう。

人種や障害者に対する差別・偏見について,黒人サポートミュージシャンを入れてという視点からそれを「搾取だ」と批判をした渋谷陽一が持っていた人種のリズム感の差に対するある種の断定,巻上公一が映画「フリークス」の観方(とでもいうのだろうか)を発見したことを指して,いわゆる文化映画寄りの立場を確保したと評されたあたり,ひろげて考えれば,P-MODELはレゲエを取り入れないとしながら,そのかわりともいえるジャングルベッド2のタムアレンジ。大槻ケンジが昔の日記を収載したなかにあった,有頂天のケラがライブで「天皇云々」と叫んだのを何と表現していたのか忘れてしまったが,言っちゃいけないこと/やってはいけないこと,を超える表現を受け手がある種,礼賛していたかのような状況。矢作俊彦なら共同正犯とでも呼ぶ,場にいる者が負う責任の希薄さまで含めると整理して考えるのにどれほどの労力が必要だろう。それは,ただし行なうべきことなのだろうと思う。書いていくうちに,どんどんズレていってしまうけれど,見るなの禁止を見たものの責任が果たされないようなもやもやとした感じを受ける。

また,以前のように固有名詞を使えなくなった状況は,今回のSNSでの騒動(といってしまうと)でも感じた。小山田圭吾という固有名詞に,1980年代後半からの活動のなかで共有されるべき事柄が包含されているのではないということだ。誰もが加山雄三のように「知らなかった」で済ましているから,以前のように固有名詞を使うことがたぶんできなくなったのだ。

7/14

けがで自宅療養中の社長。わかる範囲ですべきことをすすめているものの,金庫の開け方ひとつとってみても初めてのことなので勝手が悪い。19時過ぎまででひとまず終える。高田馬場でブックオフに寄り,文庫本3冊に単行本1冊購入して帰宅。明日はワクチン接種。那智君でさえ,前日はアルコールを控えたと聞いたので,ノンアルコールビールで夕飯。0時前に眠る。

徹は渋谷のTSUTAYAでVHSまで,ブルーレイどころかDVDにもならなかったビデオを借りまくってくるらしい。そのためにVHSからDVDにダビングできるデッキをわざわざオークションで手に入れたのだそうだ。

ネットニュースで渋谷のTSUTAYAにVHSが集結している記事が載っていたので徹に送った。早速,返事があり,「10本借りて3本は再生できない」らしい。再生できないVHSはその旨伝えると無料券がもらえるらしいが,なかなかの確率だ。

以前,グローイングアップシリーズのヒットに,二匹目のどじょうを狙ったくだらない映画を借りてみたことをFBにアップしていた。徹のFBが数人しかアクセスできない様子で,ほんと,記録として使っているのだろう。こちらはフィギュアのデータをアップしている徹のサイト。独特の文体と特徴的な写真のカットが堪能できる。

天伯

事務所に天伯すいかが届く。人の頭を超える大きさ。パートの方と半分ずつ持ち帰ることにした。18時過ぎに会社を出た。半個とはいっても重い。届いた箱を抱えて地下鉄,電車を乗り継ぐ。中井の事務所にカートを置きっぱなしにしていたので,立ち寄って,カートに載せて帰宅。19時過ぎから晩酌しながらデータの整理。家内が帰宅し,夕飯をとり,データ作業の続き。

社長がけがをして不在に。15日はワクチン接種,土曜日には久米君が中井の事務所に来る。その間,著者校正の受け渡しに,通常号の入稿。五輪連休(本当に開催されるのだろうか)前,ほんとに慌ただしい。

諸般の事情で中途のままの件について,現状を見据えて,今後の方針が固まりそうだ。流通については可能な範囲で調整するしかあるまい。といっても,想定外のことが起こるのは常。法律を調べるのが面倒なので,近くで頼りになる弁護士をみつけなければ。

7/12

仕事は編集の分をまわしていかないとまずいので,営業事務・経理はパートの方に任せる。著者校正の準備をすすめながら,サイトの更新など。20時前に退社。ポツポツと雨が落ちてきたので傘を取りに帰る。帰宅後,夕飯。Big Surにアップデートしてから数か月,ようやく落ち着いたMacBookAirでサイトの整理など。久しぶりにVivaldiのBlogを更新。

何らかのトラブルを抱えていない人は少ないに違いない。それにしても,私がトラブルを抱えた人とかかわりをもつ割合は,どうしたわけで高いのだろう。仕事で身近な人物から伝わってくる様子など,これはトラブルというよりも時限爆弾を抱えているような按配にしか思えない。にもかかわらず,やりすごそうとするから,まわりに火の粉がふりかかる。そのうち,まわりが離れていき,最後の方に残るまわりが,だいたい私の立ち位置だ。

過度にかかわらず,つまりその人を操作せざるを得ないまでの距離には近づかず,かといって,火の粉から逃げることもあまりしない。世の中よくしたもので(いや,そうとはいえないかもしれないが),短い時間,トラブルを抱える人とつながり離れていく人というのがときどきいる。どちらかといえば,私もそちらの役割を果たすほうが気が晴れそうに思う。ところが,だいたいが最後の方に残るまわりに入ってしまう。何をするにも遅すぎるあたりの感覚を抱えたまま。「から笑う孤島の鬼」じゃあるまいし。

週末

土曜日は,先のエントリーに書きとどめたことがなんともこたえた。

昼前に一度,カートを取りに事務所に行き,本を積んで戻る。那智君は13時過ぎにくるとのことで,持ってきた本を整理していると先のお客さんの一件。とりあえず終わり,この後,ワクチン接種に行く那智君と時間まであれこれ話す。15時過ぎに家に戻る。疲れてしまったので2時間ほど眠る。起き出して仕事を少しだけ。家内と夕飯をとり,1時過ぎに眠る。

日曜日は宅急便に起こされる。食事をとり,身支度をして事務所に本を持っていく。昨日同様,整理していると家内がきたので,そのまま吉祥寺まで買い物に出た。ゲイシャコーヒーの店で軽く昼食をとり,私はよみたやに,家内は服をみる。と,よみたやまでの間に急に雨,霰。1,2分路上を渡るだけで濡れてしまう。雨宿りをかねて本を眺める。50円棚から2冊購入。しばらく店内を眺めていると,雨が上がる。丸井まで戻り家内と合流。アトレの地下にできた喫茶店で休憩し,その後,書店で本を見て,少し休憩。家内と落ち合い,夕飯を買って帰宅。

「群像」が「ケア」の小特集だというので,立ち読み。このところの「ケア」への関心は,こんなふうにされてしまうのだなと思う。ケアの意味をケアの場にいる人がみずから伝えるのではなく,よいように解釈されるばかり。武谷三男が解釈嫌いだった理由はこのような風潮を敏感に汲み取ったからなのだろう。ギリガンは登場してもヘンダーソンは一言も出てこない。フェミニズムの文脈で看護(や介護)がその提供者の言葉を通して語られることはいまだほとんどない。まだ,米国の看護研究者のほうが,そうした言葉を発信していて,わが国では,勝手な解釈のなかで,出遅れた社会党のような立場に置かれているのではないか。

ケアワークをアンペイドワークの視点で切り取った上野千鶴子の功罪はいまだ尾を引いていると思う。あれはプロセスであって,その後にフラットなパースペクティブを見据えるためのものだったはずなんだけれど。

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