6/3

営業の仕事で,毎月の締の準備。処理の方法がわからないことがたまったので久米君にメール。しばらくして返事がある。20時前には終えて帰宅。夕飯をとり,踊ってばかりの国の新作をヘッドホンで聴く。

「~しか勝たん」とはいつくらいから使われ出したのか知らない。ただ,40年くらいぶりに,「おたく」に続く言葉ができてしまったのではないかと思う。そのうち,「~しか勝たん」を使いそうなクラスに対して「カタン」とラベリングされそうな印象だ。「おたく」が登場したときの雰囲気にとても近いものを感じる。

6/2

17時過ぎに退社。行き帰りに関川夏央の小説を読み始めた。同じように鞄に入れページを捲ったときは2作目あたりまでで続きを読むのはやめた。今回は読み終えるかもしれない。

そのまま落合まで行き,不在通知の郵便を受け取る。上落中通りを歩き,リサイクルショップを覘く。事務所用の書棚などを探しにきた。待ち合わせの家内がかなり遅れてやってきて,様子を確認。事務所の各箇所の寸法を測り,再度くることにした。

線路脇をあがり,パスタ屋で夕飯をとる。間抜けな大声で携帯を使う太った男。テイクアウト待ちのようだったが,迷惑ったらありゃしない。食事しながら娘用にテイクアウトを用意してもらい受け取る。久しぶりにブックオフに寄り,文庫を購入。

帰宅して,「刑事コロンボ」を観る。SynologyのDSMがアップデートされていたので更新をかけた。その後,踊ってばかりの国と下津光史の1stソロをMacに取り込み,NASにアップした。

ポータルサイトgooの「話題のトピックス」の並びを何気なしに目で追うことがある。多くの「SNSの声」と称して書かれたと思しき記事は,「ほんとかよ」と感じてしまうような単純な賛否の声がほとんどで,あの記事で糊口をしのいでいる人がいるのだろうから趣味の問題はさておき,SNSの声というのはどうでもよいものだと思う。読み飛ばされていくという意味では,雑誌の正当な末裔なのかもしれない。

6/1

STORESに入った注文の本は新事務所に移動していた。朝,少し早めに出て,本をピックアップして出社。昼休みに梱包して発送する。5月はこの1年でもっとも本が動いた。

20時くらいまで仕事。帰宅後,夕飯をとる。家内が踊ってばかりの国の新譜を買ってきてくれたので早速聴いてみる。よい意味でこれまでとは感じが違う。歌詞はディストピアを歌いながら平沢の3部作を遥か超えたかのように伝わる。比較するものではあるまいが。くるりが「本当/ほんとう」と歌ってからおよそ20年。「嘘」は「本当」の対極にあるのだろう。

北山修が,「ほんもの」と「にせもの」の間に「にほんせいのもの」があると書いた1980年代。「ほんもの」が「本当」で,「にせもの」が「嘘」かどうか何とも言えない。ただ,「ほんもの」と「にせもの」を一緒にまとめてみていく癖だけはついてしまった。それは「シェイクスピアのように」と言ってしまってよいのだろう。

岸政彦の社会構成主義に対する辛辣な指摘は,くるりや踊ってばかりの国の歌詞に登場する「本当」「嘘」のように感じられ,どこかに世代感が伴っているように思う。遥かに世代としては岸に近い私がそう感じるのだから,しかたない。

平沢進が指摘する距離感のほうに,もっとシンパシーを感じてきた私が,踊ってばかりの国の新譜で繰り返される「嘘」を抵抗なく,というよりもシンパシーを覚えたのは,バンドのもつ確信が揺らいでいないからだと思う。平沢のディストピア3部作は,もしかすると「あんたが悪い」にレイドバックしてしまった面があったのではないか。

別に,社会構成主義自体に肩をもつつもりはまったくない。ただ,その寄って立つ前提はいまだ更新され得ないように思うのだ。いや,ね。踊ってばかりの国のように,スピノザの神があるなら,それは後生大事に抱えるものではないのだろう。

5/31

朝,ローソンでアイスコーヒーを買って出社する時期。セブンイレブンとは異なり,ローソンのアイスコーヒーは店の人がカップに氷を入れ,サーバーから注ぐ仕様だ。人によってこの氷の入れ具合が違う。通勤の流れで立ち寄るローソンの朝番の人は,氷の量がかなり的確だ。渡されたカップをサーバーにセットして待つと,ふちギリギリくらいでちょうどおさまる。だいたいの人は氷の量が足りず,ふちからそこそこ下のあたりで留まる。コーヒーがこぼれ出してしまうのは論外とはいえ,ふちにたどりつかないのも情けない。サイズMで注文したにもかかわらず,ふちまで余裕があると,Sを押してしまったのではないかと錯覚する,いやしないけれど。

これは巧みなバァテンダーに通じるところがあるように思う。マティニをグラスにきれいなところまで注ぐバァテンダーの技だ。手元の技を目にする機会が減るなか,コンビニにはときどきすごい技をもつ人が立っている。

19時過ぎまで仕事をして退社。帰りにブックオフに寄り,文庫数冊と単行本を購入。島田一男の『黒い津軽海峡』後半を読み進めている。途中から犯人側の視点で描かれる章が挟まれ,倒叙法までとはいかないまでも,島田一男にしてはめずらしい構成の作品。お色気シーンの後に,「おれは何をやっていたんだ!」と後悔する海堂に「そのとおり」と突っ込みながら読むには手頃な内容。主人公の判断がほとんど役に立たないあたり,早すぎた「24」という按配にも読める。

赤い公園

とりあえず一区切り。

くるり,キュウソネコカミと一緒のライブで初めて赤い公園を観て,その後,HAPPYの対バンだった踊ってばかりの国を観たあたりまで,この10年くらい,くるりをメルクマールにバンドのライブを観てきた。くるりは同期とクリックなしを行き来し,同期なしの演奏は主にアウトロで延々とあおる感じだろうか。踊ってばかりの国は曲の長さがどれくらいになるか始まってみなければわからない。同じ時期に通った3つのバンドのライブのなか,赤い公園は同期をはずし,無茶苦茶すればよいのにと何度も感じた。「ふやける」でさえ,ある種の型からはみ出ない行儀のよい印象だった。一時期のアコースティックセッティングにはバンドの可能性が透けてみえたように思う。

ゲストが退場し,メンバー3人で演奏された曲のなか,たとえば「YO-HO」での藤本のシンセベースは,フォーマットを変えざるを得なかったバンドに見えがちなぎこちなさを微塵も感じなかった。

後半に入り,ソロ回し(これまでの赤い公園のライブで行なわれていた記憶がない。あったのかもしれないが)に驚き,石野のボーカリストとしてのステージングはますます冴える。

MCについては詳細に起こされた記事がWeb上にいくつもある。ひつと感じたのは,このバンドは喪失とともに歩んできたということだった。「黄色い花」は(たぶん)喪失に向けたエールであろうし,いや,その前やその後の喪失さえもバンドの楽曲として取り込んできた。最後の喪失については語ることがない。ローレン・バコールの自伝を引っ張り出せば,引用できる箇所くらいは見つけられるだろうが。

本編ラストは「オレンジ」。で,その後のアンコールの拍手がすさまじかった。これまで何度か観た赤い公園のライブはもとより,くるりや踊ってばかりの国,P-MODELやキング・クリムゾンなどのライブで感じたことのない音圧。そのうえ,リズムが崩れない。

アンコールを3曲演奏して赤い公園のラストライブが終了した。

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