春陽文庫


舌下免疫療法開始前,アレルギー検査の結果ではヒノキの反応は出ていなかった。だから,スギ花粉症(+バナナアレルギー)ということで治療を始めたはずだ。ところが,ここ数日のヒノキ花粉の飛沫の非道さのせいか,すっかり花粉症の症状が復活してしまった。

週末までに比べると少し寒くなった。20時頃に仕事を終え,池袋でグラスワインを飲みながら,読み返し始めていた島田一男の『金色の花粉』(春陽文庫)を適当なページまで進める。

繰り返しになるけれど,初めて春陽文庫を手にしたのは宇都宮の古本屋・山崎書店でのことだと思う。1974年か75年,まだ小学4,5年生の頃のことだ。ポプラ社の少年探偵シリーズは読み進めるとともに,だんだん面白みを欠けることが,子どもでも気づいた。このタイミングでいっそのこと,名作文学を手にしていれば,その後の人生は少しくらい変わったものになったかもしれない。しかし,私が手にしたのは春陽文庫『江戸川乱歩名作集〈3〉』で,そこには以下の中短編が収められていた。

  • 屋根裏の散歩者
  • 鑑地獄
  • 押絵と旅する男
  • 火星の運河
  • 目羅博士の不思議な犯罪
  • 疑惑

文庫だというのに,どうしたわけか二段組みで,カバー袖のあおりの文章の古めかしさに惹かれた。各編の終わりに初出が載っていて,大正十三年とか昭和二年とか表記されているのが,とても新鮮に映った。名作文学とはほど遠い,乱歩をそれも春陽文庫で読むようになってしまった。

そのうち,新潮文庫の傑作選や角川文庫も手にしたものの,名作集〈3〉のラインナップに敵う文庫に出くわすことはなかった。その後,中学生時代までに長編を含め,江戸川乱歩の小説と一冊のエッセイ集を春陽文庫で揃えた。今もそのとき手に入れた名作選〈3〉は手元にある。

1980年代に入って,甲賀三郎や大下宇陀児,角田喜久雄,浜尾四郎あたりは春陽文庫に収載されているもので読んだはずだ。角川文庫と違い,春陽文庫を読み進めても,名作に遭遇するチャンスはただただ閉ざされる。春陽文庫は行き止まりの道に直結しているのだ。

その少し前の70年代後半,テレビドラマ「いろはの“い”」の再放送をきっかけに,新聞記者ものの小説に嵌り,紆余曲折があって島田一男の事件記者,銀座特信局シリーズにたどり着いた。当然,春陽文庫だ。ノンフィクションの名作には新聞記者が書いたものがたくさんある。このときもそうした本を手にとることなく,春陽文庫の島田一男ばかりを読んでしまった。

本を入れて実家から送った段ボールのなかに,島田一男の春陽文庫が20冊くらいある。もう読まないだろうなと思いながらも,去年,八勝堂書店の均一に読んでいないシリーズが出ていたのでつい買ってしまった。『金色の花粉』はそのなかの一冊で,一度読んだような気がする。読み返し(便宜上,こう表記する)ても,筋はまったく記憶に残っていない。「とんでもハップン!」なんて,矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱん』で発掘されたネタがリアルタイムの言葉として登場するのは面白いけれど,まったくどうでもいい話なのだ。にもかかわらず,島田一男のゆるい文体を春陽文庫で目の前に示されると,つい読んでしまうのだ。

春陽文庫を読まなければ,違った人生を歩んでいたのような気がする。

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