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抗生物質を飲んで快復した調子から,その先がなかなかすっきりしない。咳が続くので疲れる。

1時間ほど遅れて出社。足元がふらつくのは薬のためか,体調のためか,相乗作用かよくわからない。18時くらいまで仕事をして帰る。駅前の本屋で藤木TDC『消えゆく横丁』(ちくま文庫)を買って捲る。矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱん』も読んでいるのだけれど。高田馬場で少し休み,ブックオフで結城昌治『ひげのある男たち』(講談社文庫)を買う。娘は食事をしてくるというので,家内と下落合の炭焼き料理店で待ち合わせ夕飯。21時すぎに家に戻った。早く眠るつもりが結局,23時過ぎになってしまう。

話していると咳が出てくるので,これでは仕事にならない。明日は午後から打ち合わせがあるというのに困ったものだ。

『消えゆく横丁』を読みながら,一連の投稿に何度か書いた,有楽町ガード下の「小松」のことを思い出した。最後に行ったのは10数年前,丘野君と一緒だったと思う。「こんなに悪い酒,久しぶりに飲みました」と言われた記憶があるけれど,そのとき,すでに「焼き鳥専門店」とかなんとか店に貼ってあって,プラケースにメニューが挟まれ,テーブルに置いてあったので驚いた。

森田童子がはらをくくって客商売始めたような感じだったお母さんはいなくて,娘さんのどちらかがきりもりしていたような気がする。

昭和の終わりから平成の初めの数年間,上司に連れられて月に数回通っていたころは,お母さんが炭焼き場の前を切り盛りして,娘さん二人が焼き鳥やおしんこ,キムチ,もちろんビールや日本酒を運んでいた。

その後,しばらくしてあのあたりを歩いたときには看板は外されていた。数回,同じような様子を見たものの,Webを検索すると,10年くらい前までは,少なくとも店は開いていたようだ(昨日,Twitterでもそのような書き込みをもらった)。

平成の初め頃まで,有楽町あたりの飲み屋は,客の世代によってゾーニングができていて,たとえば高度成長期に現役世代で,その後,広告代理店の上層の地位を獲得した人たち,テレビ,ラジオ局の部長,地方局の管理者などが集まる飲み屋は, 早い時間だと薄暗いままの線路下通路を新橋方面に向かって左側にあった。通路をもっと進むと新聞の捌き場になっていた。

銀座で待ち合わせた昌己と,時間があったので一度,入ったことがある。ドアを開けると,「どちらさまのご紹介で?」と70歳近くのお母さんに尋ねられた。日本酒が一杯1,000円ほどで,昌己は「ひさしぶりにぼられた」と言ったものの,まあ週末の17時過ぎ,まだ20代の私たちに一杯出してもらえるだけでもありがたいものだった。当時勤務していた通信会社の創業者は,メディア界隈で名の知れた人で,上司に初めてこの店に連れてこられたときは,創業者が元気だった頃の話をしていた。今の話をするほど不躾なことはない。 映画のなかで, ベテラン新聞記者が権力者(ボキャブラリーが貧困だ)と偶然同じ席になり,二言三言から真相を確認するような酒場だった。

小松は,そうした店より一世代後の団塊のサラリーマンが世話になった店だ。先の店とは違い,来るもの拒まずではあったものの,メディア関係で仕事をする団塊世代に好まれた。ただ,最後に入ったとき,客層が変わったのだなあと思ったことは覚えている。

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