11月くらいから営業の仕事を本式にしなければと,創業2期を終えて,ようやく思い始めた。
営業するにもモノをつくる前ならばまだしも,定期的にモノはできあがるのにもかかわらず,手が回らなかったというか,花井カオルのような自信だけはあったのだ。
ところが,生業にはなにがしかの営業が必要なことをようやく感じ始めた。多重なことは過大だから,このところ,営業に関する仕事でほぼ一日は終わっていた。カオルのような自信だけはくじかれずに残っているのだけれど,結果はまだついてこない。
11月くらいから営業の仕事を本式にしなければと,創業2期を終えて,ようやく思い始めた。
営業するにもモノをつくる前ならばまだしも,定期的にモノはできあがるのにもかかわらず,手が回らなかったというか,花井カオルのような自信だけはあったのだ。
ところが,生業にはなにがしかの営業が必要なことをようやく感じ始めた。多重なことは過大だから,このところ,営業に関する仕事でほぼ一日は終わっていた。カオルのような自信だけはくじかれずに残っているのだけれど,結果はまだついてこない。
夕方から440まで,下津光史のライブを観に出かける。
少し早めに事務所を出て,古本屋を覘こうかと思ったものの,煩雑な作業が重なり,気がつくと16時前だ。途中家に寄り,西武新宿駅まで行く。小田急線に乗り換えて下北沢まで。17時半のオープンまで1時間弱ある。
歩きながら,なんとも賑やかな町だなあというか,街並みが商いをする様ばかり映し出すかのようで少し疲れてしまう。高円寺のゆるい空気とはどこか決定的に違うのだ。
とりあえずは440の位置を確認し,北口まで行ってしまうと間に合いそうにないので,古書ビビビだけ覘くことにした。ざっと眺めて何も買わずに戻る。
17時半のオープン前にもかかわらず,整理番号が呼ばれている。すこし腑に落ちなかったものの,店の人にiPhoneを見せると,OKだと言われる。娘の連れ合いがやってきたので列を離れて,番号を確認する。なんだか二重になっているようで,それでも440が地上にあって,並んでいる列が地下に向かっていることを不思議にも思わなかったのは疲れていたからなのだろうか。
家内と娘がやってきて,下津ライブはまだオープンしていないことにようやく気づいた。
那智君が来ているみたいなので,あたりを確認したものの,姿は見えなかった。そのうちにオープンになりフロアに入る。
18時にスタートして,ギター1本とディレイのスイッチングのみで2時間。ゆるい感じでとてもよいライブだった。「光の中に」の最後の一節,「人が いつの日も 同じほうに流れるから」には聴くたびにドキッとする。
終演後,那智君と落ち合い,近くの居酒屋に流れた。2時間ほど飲んで食べて1人2,000円ほど。安いし肴がおいしい。駅で別れ,来た道順で帰宅したのは23時くらい。
iPhoneのフィットネスをオンにしてから数週間経った。家と事務所が数百メートルほどの距離で,買い物に移動するのも同じくらいで済む。圧倒的に移動する時間が減ったこの2年間だ。
徹は自宅と駅の行き来だけで1日10,000歩を数えるというが,まあ,そこまではしなくても,もう少し移動時間を増やしたほうがよいのではないかと思い始めた。2年を経て思うことではないかもしれない。
一駅徒歩で移動すると,まあ一日分の距離を稼ぐことはできる。事務所からの帰りにときどき,山手通りと目白通りが交差するあたりまで歩き,買い物をして帰宅したりもした。何度も書いたことだけれど,四半世紀前,今のマンションに引っ越してきた頃,目白通り沿いには古本屋が4,5軒あって,池袋西口と合わせると店を覘くだけで半日は十分にかかる按配だった。個人商店があたりまえに商いをしていて,引っ越して最初の年は年末の買い出しに来たはずだ。
元旦になると,そのあたりの店が一斉に休む。これは東中野までまったく普通のことで,なおさら年末にある程度,買い物をしておかなければ買い足しをコンビニで済ませるようなことになる。
歩数を稼ぐために目白通りを歩く。驚くほど閑散としている。娘が小学生の頃,土曜日に昼食をとるために奢ったうなぎ屋は営業しているが,聖母坂の鮨屋は早くに店を畳んだ。鮨屋はともかくとして,上智大学があるというのに,学生向けの店の商売が成り立たないというのはどうしたことだろう。学内にコンビニが入ったとしても,聖母坂にあったコンビニは2軒ともなくなってしまった。
目白通りを駅に向かうとその閑散とした景色に違和感を覚える。家はあり,マンションは立ち,人の生活は変わらずにある。にもかかわらず,地域にその生活を支える機能ももつ場がなくても済むということに。
大泉学園に住んでいた頃,吉祥寺まではバスで行き来した。娘が生まれる前のことだったので,帰りに駅前あたりで夕飯を食べて帰ることが多かった。
駅から少し離れたバス通りに,あたらしくイタリアンの店ができたと雑誌だったか何かで知ったのはそのことのことだ。当時,30代後半くらいの店主ひとりでまわしているその店に数回入ったことがある。うまいのだけれど,駅から少し離れていることと,混んでいては入れなかったときに他の店をさがすのがやっかいなこともあったりするので,娘が生まれてからは行っていなかった。
家内と吉祥寺で夕飯をとる予定を立て,しばらく前から利用していた店はこの期間,特別メニューのみということで,しかたなく,いくつか候補の店を探していると,その店が開いていることを知り,予約したのは2日前のことだ。
アーケードを抜けて,映画館を横目に数分で店に着いた。カウンターにテーブル1つ。四半世紀以上,このスタイルで店を続けているのだからすごい。
コストパフォーマンスのよいコースがあるのだけれど,少しは貢献しようと単品で前菜2皿,パスタ,リゾットを注文することにした。
1時間半くらいでデザートまで平らげ,あらためてよい店だと思った。
『別冊文藝 総特集 望月ミネタロウ』を購入してから繰り返しページを捲る。
うまくいかないことが続いたとき,手にとってしまうのだろうなあと思いながら,この12月は何度も読み返した。
1964年の早生まれで横浜市生まれと書かれてあって,ほど同じ世代だと今更ながらに気づいた。『バタアシ金魚』を発見したのは徹で,感化された彼は夏休み明けに頭を坊主にしてきた。大中で手に入れた人民服に帽子をかぶり坊主頭。校門のところでしばらくぶりに徹と会った五ノ井君は徹の姿をみて,ただただ「ぼ,ぼ,ぼ」と発することしかできなかった。そんなことを思い出した。
望月ミネタロウのマンガをだから,われわれは40年近く読んできたことになる。カオルの社会人生活が描かれた『お茶の間』を国分寺からほんやら洞方面に下り,東経大を過ぎたあたりに引っ込んでいた徹のアパートで読んだ。『バイクメ~~~ン』のファッツじゃないものの,高田馬場のスミスの店主に「『バイクメ~~~ン』のファッツみたいですね」と失礼なことを言ってしまった記憶も蘇る。
『ドラゴンヘッド』はさらりと,『万祝』の振り切り方は『バタアシ金魚』とは違うものの,2000年代の居心地の悪さが乗り移ったかのように思えた。
『東京怪童』から先は,もはやページを捲るごとに,コマ割りと線で構成された絵を眺めるだけで満足してしまう。『東京怪童』の描写は,大友克洋が『童夢』で描いた消防士の目線という発見をさらに押し進めたもので,ただただ読むのが楽しかった。
『ちいさこべえ』については,一連のエントリのなかで何度か触れたように思う。