宇都宮

東武線経由とはいえ,往復2,000円もかからずに宇都宮まで往復できる方法があることを知った。今回は池袋から東武宇都宮まで往復1,932円だった。事前に入手したチケットを携え,カートを引っ張りながら高田馬場,日暮里,北千住と乗り換えを続ける。

南栗橋,栃木でさらに乗り換え,宇都宮に向かう線に入ったあたりで雨が降り始めた。家を出たときはシャツ一枚で十分な暖かさだったものの,駅に向かう途中のクリーニング屋でとってきたダウンジャケットが必要なくらいの寒さになってきたので羽織る。

15時過ぎに東武宇都宮に到着。オリオン通りに入るまでの少しの間,雨が強くなる。通りを進むと,レインボーブックスさんがいるのを発見。挨拶して,バス通りに向かう頃には小降りになっていた。宿泊先までバスで行く。私が卒業した中学校のすぐ裏手にある施設なのだけれど,当時からそんな施設があったかどうかさえすっかり忘れている。

チェックインを済ませ,荷物をほどくと17時を過ぎてしまう。明るいうちにあたりを散策しようと思ったものの,あまり時間がなさそうだ。とりあえず中学校とその裏手にある神社を覗く。バスで駅まで向かい,30年以上ぶりで卒業した高校まで行ってみることにした。平成通りという,その名からして,当然一度も通ったことのない通りをバスで進む。今は中高一貫になったというが,恩師がいるわけでもないので,サッサと駅まで戻る。

駅の近くの焼きそばとタイ料理の店に入る。宇都宮は焼きそば屋というのが意外と多い。学生時代,一皿200円,300円ほどと安くて,擂った白ゴマと胡椒をかけて食べる焼きそば屋によく行ったことを数十年ぶりで思い出す。レモンサワーと餃子に焼きそばを頼み,日本シリーズを眺めながら飲む。つい落ち着いてしまい,宿泊先に戻ったのは22時くらいになっていた。本の整理をした後で眠る。

起きたのは7時過ぎ。シャワーを浴びて荷物を整理。チェックアウト後,バスで県庁通りまで行く。朝食をとる店を探していて,ブラジルコーヒーショップに入る。最初はまったく忘れていたけれど,二階に続く階段の下あたりの席の様子に見覚えがある。高校時代,栃木会館で美術部展を開いたとき,何度か入った記憶が蘇ってきた。モーニングを頼んだ。帰りがけ主人と二言三言話す。昔の福田屋デパートに居抜きで入った店の4,5階にセリアがあったので,値札用の付箋と本を拭く雑巾を買ってオリオン通りに行く。

オリオン☆一箱古本市の様子は別サイトに記したので繰り返さないけれど,よく売れたし,話も弾み(お隣の店の84歳の大女将さんと),とてもたのしい一日だった。おかげで帰りの荷物は軽くなった。17時に終了予定だったものの,人通りが少なくなってきたので30分前に片づけ始めた。昔,出張に出るときは,自社の雑誌やパンフレット類を重いと思うくらい持っていく社風だった。そうすれば,帰りは少しでも軽くしたいから,いろいろな施設で飛び込みでも話を聞いてくる動機づけになるという理由だった。一箱古本市の場合,売れなかったらシャレにならない重さなので,同じような理由から「重いと思う」ほどは箱に詰めたくない。結果として重くなってしまうだけだ。

運営事務所に挨拶を済ませ,オリオン通りを東武に向かって歩くと,以前,パルコがあったあたりが広場になっていてジャズライブが始まっていた。中に入り,200円でレモンサワーを頼み,数曲聴いた後,広場を出てオギノラーメンに行き,みそラーメンを食べた。

帰りの東武線は,新栃木から日光帰りの客で混雑。北千住,日暮里で乗り換え,池袋で定期を継続して,家に着いたのは20時過ぎだった。

年に一度,宇都宮を訪れるのが面白くなってきた。

Pub

午後から取材の予定が入っているので,用意をして家を出た。17時まで広尾で取材に入り,歩いて渋谷に戻る。昌己,那智君,山崎さんと待ち合わせて,センター街のPubで飲む予定を立てた。18時には揃い,店に向かう。

編集者ばかりの飲み会というのは,ときどきでかい話になってシラけてしまうのだけれど,地元ネタと音楽談義でほとんど仕事の話にならなかったのが面白かった。

山崎さんが途中で抜け,明日,仕事だという昌己が23時くらいに出て,結局,那智君と二人で0時くらいまで飲む。あのPubだったので,22時くらいにKing Crimsonの2ndが突然かかったかと思ったら,ほとんど続けてBauhausの“In The Flat Field”が聴こえてきた。思わず昌己と爆笑してしまう。那智君がMadnessの“Our House”をリクエストすると,そこから店を出るまで,スカ系ばかりがかかっていた。

ビールは高めだけれど美味いし,このPubに行くために渋谷に通うこともあるような気分。

一箱

午前中はインフルエンザの予防接種。今年はワクチン供給数が少ないということで,午前/午後900名ずつ,1週間ほどにわたって実施されることになり,毎回大混雑だというので,午後に申し込んでいたものを午前中,朝いちばんに出かけた。それでも終わったのは11時過ぎになってしまう。午後から著者校正をいただきにあがり,20時くらいまで仕事。明石順平『アベノミクスによろしく』(インターナショナル新書),『蒼ざめた馬』(下巻,マンガ)を購入。大塚英志の新書を読み直していたのだけれど,買った新刊を読んでいた。

11月5日に宇都宮で「オリオン☆一箱古本市」に,19日に「みちくさ市」への出店が決まった。宇都宮は昨年,出かけて,ほとんど売れなかったものの,子どもの頃,10年ほど暮らした地でもあり,今年も申し込んだ。これまで一箱古本市に並べた本の対象(蔵書だから,もちろん自分自身)より,10歳くらい若い人に向けて本を選ぼうと思ったものの,そうすると,私の蔵書ではなく,娘の本を並べるようなことになる。

ところが,娘は小さい頃,読み聞かせたり自分で読んだ絵本,本のストーリーをいまだ覚えていて,当時の本への愛着がまったく失せていないことが発覚した。しかたがないので,一点一点,確認して,並べる児童書を確保しているところだ。

3日の夜に飲み会があるので,4日の午前中は役に立たないだろうと思い,4日,5日と2日間にわたるなか,5日だけ申し込むことにした。前日に宿をとったので,午後から出て,久しぶりに山崎書店を見たいと思う。

「みちくさ市」は,いつもの調子で本を並べたいという,妙な安心感がある。場所は定期を使って,あとは歩いていける距離だし,参加されるのは見知った方が少なくない。

いま気づいたけれど,「トピックス」とあるタグを使ったことがないかもしれない。

台風

昨夜からの雨は本降りになって,ときどきおさまりかけると,再び強くなる。遅めに起きて食事をとり,昼過ぎに家を出た。風はおさまっているものの,雨は相変わらず強い。

会社まで行き,昼はバンビで定食。グラスワインの赤を一緒に頼んだところ,冷えて香りはたっていないもののフルボディで量もたっぷりの飲み心地。せっかくだから冷やさずに出せばよいのに。会社に戻り,昨日の自社セミナーの片づけを済ませた。

18時くらいに会社を出た。バケツをひっくり返したような量の雨が続く。池袋で夕飯を買って家に帰る。

半村良の『闇の中の哄笑』のページを捲る。『系図』『黄金』とも途中までは面白いのだけれど,最後でどうもパワーダウンしてしまう感じがする。『哄笑』は伝統的なコンゲームの構成で映画っぽいが政界を巻き込んだスケール感があまり読み取れないのはどうしてだろう。

劇場版

夕方まで南新宿というか北渋谷で自社セミナー。まだ雨が降らないなかを南口をおりて甲州街道を横断する。セガフレードに入り,モーニングをとる。まわりはフランス人に中国人一家と娘婿のアメリカ人など,9割から日本語が聴こえてこない清々しさ。

18時くらいに一式済ませて,西口のブックオフを覗くもののほしい本は特にない。久しぶりに新宿から大江戸線で帰る。伊野尾書店で大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた―角川書店と教養の運命』(星海社新書),渡辺京二『死民と日常〈私の水俣病闘争〉』(弦書房)を買って,線路を渡った向こうにできた韓国居酒屋で夕飯を兼ねて飲む。

21時過ぎに帰り,本を読みながら少し眠るはずが1時を過ぎていた。寝る準備をして大塚英志の新書を読み終えたのは3時をまわっていた。

大塚英志の新書は第9章からガラッとイメージが変わり,第10章のスリリングな展開に至る。そこだけ何度か読み返したものの,うまく引用できない。

大塚英志の本を何冊も読み,通奏低音のようにひっかかるのは,1977年,最初の劇場版「宇宙戦艦ヤマト」を観るために朝から行列を作った現象に他とは違う評価をもっていることだ。

中学2年の夏休みのこと。父親の転勤のため宇都宮の中学校に通っていた私は,いまやコスプレカメラマンになった友人とともに,たぶん始発電車で池袋に向かった。1977年8月8日のことだったと思う。SNSもなにもない時代,たぶん映画館前に列をつくったのは,「宇宙戦艦ヤマト」に関心をもちながら深夜放送を聴いていた層が多かったのではないだろうか。だからそれは後に新人類と呼ばれる世代を下限に,少し上にかかった集団だったと思う。そうとでも考えなければ,始発で池袋に向かうに至った情報のありかがわからない。

当時,リアルタイムで情報を得られるのはラジオくらいしかなかった。Wikiをみると「月刊OUT」が情報源とのことだけれど,上映期間が1週間だということを知ったとはいえ,だからといって始発で映画館前に並んだのはたぶん,深夜放送からの情報だったと思う。

動員について考えるとき,最初の劇場版「宇宙戦艦ヤマト」を契機として,続編や数多の角川映画のことを思い出し,動員された自分が同じ轍を踏まないためにどうすればよいかと折々に対象化してきた。ただ,劇場版「宇宙戦艦ヤマト」第1作は違うのだと,大塚英志は記しているように思う。

A5判当時の「月刊OUT」を高岡書店で目にしたのは1977年のいつ頃だっただろう。輪のようなアステロイドの真ん中に隕石を模した宇宙船が浮かぶ絵をいまだに覚えている。あの号を見たことと,映画館に並んだこととの因果関係がいまだに思い出せない。(加筆予定)

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