本棚

どうした理由かはすっかり忘れたが,親が本棚を買ってくれるという。小学4年生の頃だったと思う。数日後,クリーム色とグリーンのコンビでカラーリングされた合板の本棚が2本やってきた。私の背丈を越す高さで棚は4,5段,下に引き出しが3つ付いていた。そのときのうれしさは今でも覚えている。

その2本の本棚は中学時代まで,私が使っていた部屋で特別なものとなった。本が本棚に並ぶ様子を見ることの楽しさ,並べ替えることの面白さは,だからこの合板の本棚を通して得たのだった。

高校に入った頃,親が刑務品の本棚を買ってきた。硬い木でできた本式の本棚だ。幅は合板の本棚2本を合わせたより広かった。何よりもどっしりと重い。いきおい,気に入った本を刑務品の本棚に移し,合板の本棚は背丈のある袖机のような使い方をするようになった。

刑務品の本棚はがっしりしているものの,背板がない。その代りに敷板の奥が切り立った板で止められている。本が抜け落ちることはない。控えめに彫られて装飾された佇まいも気に入った。

一人暮らしをはじめたときは,合計3本の本棚を携えていった。

刑務品の本棚に背板がないことで本の小口が日焼けしてしまうと気づいたのは,にもかかわらずかなり経ってからのことだ。講談社文庫版の中井英夫の小説を読み返していると,小口が天から2/3ほど焼けていることに気づいた。気づいたからといって,どうなるわけでもない。今も手元に残る気に入った本の多くが,どれも同じように日焼けしているのはそういう理由だ。

合板の本棚は,私が所帯をもってからは親のところに残り,預けた私の本(の一部)を変わらず並べていた。少し前,親のマンションを処分するときに本棚も一緒に処分することにした。そうやって40年近く,私の本を並べていた本棚なので,本を処分するより,その本棚を処分することのほうがつらかった。それは意外な感情に思えたけれど,記憶を手繰り寄せれば当然のことなのだ。

刑務品の本段は現役だ。廊下の突き当たりで,新書からハードカバー,私が担当した本の一部,雑誌などがおそろしく乱雑に並んでいる。これからも何らかの形で使い続けるだろう。

本棚の記憶は,徹夜明けに始発電車を待つようなものだ。

週明けに,注文していた組み立て式の本段が届いた。早速,組み立てて,玄関のスリッパ立ての横に置いた。文庫本と四六判を入れると,みちくさ市にもっていくくらいの冊数が並んだ。

それぞれの親の家からもってきた本で,ここ半年以上,非道い状態のわが家を少しは整理しようと思ったのだ。とりあえず2本を追加注文した。それくらいで片づく本の量ではないのだけれど。

東京都美術館

回復までもう一歩くらいの感じ。シャワーを浴び,家内,娘と待ち合わせている上野に向かう。上野精養軒で昼食をとり,東京都美術館で「バベルの塔」展をみる。雨が止み,人が増えてきた。入場まで20分待ちで並び,あっという間に後列で「入場まで40分待ち」のカードがあがる。

前回,ポンピドゥ・センター展に来たときも感じたのだけれど,東京都美術館の展覧会は,作品数が少なすぎる。その分,見せ方を工夫しているのはわかるけれど,動員人数からすれば予算が少ないとは思えない。

ブリューゲルの「バベルの塔」をいかに見るか,そこに焦点を絞った企画だとは重々承知の上,それでもブリューゲルで見たいのは「バベルの塔」だけではあるまい。そのあたりをきっぱりと切り捨てた構成をどう評価するかによるのだろう。

「バベルの塔」を見て,なんでもっと大きく描かなかったのかと感じたことが一つ。また,矢作俊彦が指摘したとおり,「未来は古びている」ことを示した絵なのだなと感慨深く思った。つくりかけにもかかわらず,あの草臥れた感じでは,できあがったとしたら全体はどんなふうに映るのだろう。年中工事をしている渋谷駅のようだ。

16世紀のオランダというと,スペインと覇権を争い,遠藤周作の『沈黙』というか,星野博美の『みんな彗星を見ていた』のほぼ同時代であって,他の絵を見ながら当時のキリスト教徒の振り切れ方も感じた。ちょうどキリスト教史を学んでいる娘も似たようなことを言っていた。

アメ横まで戻り,少し休憩して,家内の買い物に付き合う。松坂屋まで行ったので夕飯を済ませようと思ったら,店内に食堂街がない。しかたなく上野駅近くまで戻り,蕎麦屋の二階,クラフトビールを出す店に入って夕飯をとった。

空いた時間に石森章太郎の『番長惑星』をそれなりにていねいに捲っていた。

ブックオフのオフ

金曜日,18時過ぎに仕事を終え会社を出たものの,財布を忘れて取りに戻る。ついでに置いたままにしてあったポール・ボウルズの『とどまることなく』を鞄に入れた。池袋でビールを一杯飲みながらページを捲った。ブックオフの20%オフセール,あまり興味なかったものの,高田馬場で降り,覗いてみた。

  • 林竹二『田中正造の生涯』(講談社現代新書)
  • 埴谷雄高・立花隆『無限の相のもとに』(平凡社)
  • きたやまおさむ『帰れないヨッパライたちへ』(NHK出版新書)
  • 田中光二『エデンの戦士』(角川文庫)
  • ジミー・ブレズリン『ニューヨーク・コラムシャワー』(青木書店)
  • 石ノ森章太郎『番長惑星1~3』(竹書房文庫)

今朝はかぜがまだ治らず,午前中遅くに起きて薬を飲む。しばらく横になり朝食をとり,本を読む。午後から会社に出ようと思っていたものの,結局,よすことにした。CDを聴きながら本を読んでいるうちに16時過ぎになってしまう。近くのスーパーマーケットでビールとつまみ2品を買い,遅めの昼食かわりにする。久しぶりに自転車に乗り,東中野のブックオフに行く。

  • 矢作俊彦・平野仁『ハード・オン1~2』(双葉社)
  • 半村良『闇の女王』(集英社文庫)
  • リチャード・デミル他『呪術師カスタネダ』(大陸書房)
  • 星野博美『銭湯の女神』(文春文庫)
  • 星野博美『のりたまと煙突』(文春文庫)

そのまま高田馬場に行き,家内,娘と夕飯。この前,娘と入った地下のカジュアルイタリアン。混雑していた。せっかくおいしい店なのだから,飲み放題コースは設定しなくてもいいのでは。帰りに高田馬場のブックオフに連日。さすがにほしい本はあまりない。

  • すぎむらしんいち『ホテルカリフォリニア上・下』(KKベストセラーズ)

ということで,興味がないはずのブックオフの20%オフでそれなりの冊数を買ってしまった。『ハード・オン』は手持ちのものより状態は少しよくて(こればかり)800円だったし,『ホテルカリフォリニア』も矢作俊彦の解説を読むために刊行時手に入れたのだけれど,たぶん10年くらい前,キノコノクニヤ書店に売ってしまった。星野博美の文庫本2冊はみちくさ市用に買ったもの。ハードカバーも文庫本も手元にあるし,『銭湯の女神』に至っては出張先で車中用に買った文庫本がもう一冊あったかもしれない。

『番長惑星』を読み返しながら,これは『ギルガメッシュ』と続きものだったのだな,といまさらながら気づく。『イナズマン』の「超人戦記」が長くまとめられなかったのも,『番長惑星』と重なるからだとわかった。絵柄は今一つ面白くないものの,そのうちきちんと読み返してみよう。

サワディー

午後から広尾で打ち合わせと検討会。先月から検討会の仕出し弁当は東中野のゆら川に頼んでいるのだけれど,評判よい。自宅では,ゆら川の出前をかなり前からとっている。コストパフォーマンスがよいので,一度,検討会のときにも使おうと思っていたのだ。20時過ぎに終わり,日比谷線六本木経由で帰る。伊野尾書店で「散歩の達人」と『東京わざわざ行きたい街の本屋さん』を購入。飲みながら読もうと思った。踏切まで歩き,結局,サワディーに入ることにした。

サワディーに先客は1人だけだった。カチカチとスプーンを鳴らしながらカレーを流し込んでいた。ビールとヤムウンセンを頼み,買ったばかりの本を捲った。

「散歩の達人」はリニューアル直後,創刊時に戻ったかのような雑誌らしさを取り戻したものの,読む身にしてみると少し前から頭打ち感がある。井の頭線の特集だというので購入したが,読みづらさが先だってしまった。面白い記事であれば,そんなふうに感じることはないのだけれど。

『東京わざわざ行きたい街の本屋さん』は,膨大で薄くなりがちな企画を,かなり大胆に構成した手腕は見事だ。青山・表参道とか神保町の位置関係が新鮮だった。

久しぶりのヤムウンセンにビールはすぐになくなってしまった。ハイボールを追加注文すると,サービスでタピオカミルクに刻んだリンゴを浮かせたデザートをサービスしてくれた。

風雨

朝から雲行きがあやしい。仕事をしながらガラス窓越しに激しく吹く雨風の様子が伝わってくる。相変わらず体調がすぐれず,18時過ぎに会社を出る。池袋で少し休んでから家に帰る。

林竹二の『田中正造』と遠藤周作の『海と毒薬』を交互に読んでいる。

明治十一年(1878)に三十八歳の田中正造は、政治に「発心」した。政治にたずさわるということは、正造の場合は、公共への文字通りの「献身」にほかならなかった。彼はこのときに、①これから以後、一切自己営利のために精神を労しないことを誓い、②「家」の系累を断つため、男女二人の養児は相当の教育を与えて実家に帰し、③自ら造りえた財産三千円を、「公共」のため毎年百二十円ずつ「三十五年間の運動に消費する」という計画(正造は「予算」と書いている)を立てたのである。

林竹二『田中正造ーその生と戦いの「根本義」』(p.29, 田畑書店, 1977)

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